ロシア旅行2009:二都物語

By 三上吉彦 @中国・大連 2009/07/19

 

My Trip to Russia 2009: A Tale of Two Cities

By Yoshi MIKAMI in Dalian, China2009/07/19

 

 

 

SP:ピョートル大帝

 

モスクワ:赤の広場

 

 

内容 The Contents:

旅行日記.. 2

2009.06.22. サンクトペテルブルク(1):これまでの私とロシア、北京空港にて、私的クーリエ・サービス、SPのホームステイ先、ネフスキー通りと音楽会.. 2

2009.06.24. サンクトペテルブルク(2):町を散歩、ルーブルに換金、ロシア語の授業、ペトロパヴロフスク要塞、ツァールスコエ・セロー.. 6

2009.06.27. サンクトペテルブルク(3):3つの小博物館、エルミタージュ博物館、怠惰な土曜日、ノヴゴロドへ日帰り旅行、ペテルゴーフ.. 9

2009.07.02. モスクワ小旅行:モスクワのホームステイ先、モスクワ市内見物、金の環とサーカス、アルバート通り、トレチャコフ美術館、モスクワ〜SP. 12

2009.07.06. サンクトペテルブルグ(4):SPでソフトウェア開発、マスコミ、歌手のズィキナ、ドーム・クニーガと白鳥の湖、SPで教会通い、中国へ帰国、総括.. 16

 

 

 

旅行日記

 

2009.06.22. サンクトペテルブルク(1):これまでの私とロシア、北京空港にて、私的クーリエ・サービス、SPのホームステイ先、ネフスキー通りと音楽会

 

A.これまでの私とロシア

 

私の学生時代には、ソ連がいまよりずっと幅をきかせていた。特に科学技術では、はじめての人工衛星や有人宇宙衛星を打ち上げたのもソ連で、私は学生の1年生は生物専攻を目指していて、ルイセンコの生物学説、オパーリンの生命の起源説、ミチューリンの農法などを学んで、いつかソ連へ留学するのもいいなと思い、ロシア語も勉強し、ロシアの文化や歌も学んだ。

 

私の記憶の中の「赤の広場」

しかし私はその後米国へ留学してしまい、ソ連崩壊後当時の生物学関係の学説はウソっぱちと分かり、でもあれはいったい何だったのかなという思いが最近強くなった。去年、大連で2人のロシア通方々、大竹明哉・竹本節子さんと知り合い、彼らは両親の仕事の関係で終戦時に中国東北地区に留め置かれ、当時ソ連が進駐していたので子供時代をハルビンのロシア語学校で過ごし、大竹さんはいまでもロシアへ時々旅行をしていて、ロシアへ行くならモスクワでなく聖彼得堡(サンクトペテルブルグ、SP)がいいといい、ホームステイ先とそことよく行き来している山田実さんと奥さんも紹介してくれたので、今年の4月にビザもそのホームステイ先と山田さんを通して日本のロシア大使館で入手して、今週大連ソフトウェア交易会の忙しさも終ったので、この2週間ほどロシアへ行くことにした。

 

B.北京空港にて

 

大連を早朝7:30の海南航空の飛行機で出発して、1時間後北京空港第1ターミナルに着き、私は荷物をガラガラ押して第2ターミナルへ行き、午後3時出発のサンクトペテルブルグ行きの飛行機を待った。海外では中国元は役立たずなので、滞在費用は日本円を用意してロシアで換金するつもりだが、空港から民宿までのとりあえずのロシア・ルーブルが必要と思い、空港でルーブルを入手しようとしたが、第3ターミナルの中国銀行へ行かないとダメといわれた。

 

北京空港の第3ターミナルは去年の北京オリンピックのためにできた超近代的な建物と聞いていたので、無料バスで10分もかかる遠いところだが、見にいった。でもそこの中国銀行でも中国内でルーブルの入手はできないといわれ、仕方なく第2ターミナルへ戻って、そこの北京銀行の両替代理商で少し欧元(ユーロ)へ換えてゆこうと思ったら、係員からロシア人はすべて米ドルに交換して帰ると聞いて、私も米ドルに換えてもらった。係員は米ドル札を慎重に選び、ロシアでは2002年だか2003年以前の米ドル札は受け取らないという。

 

そのうち、ここにもいました! 銀行窓口近くで、銀行支店長の庇護のもとに外貨交換をしてくれる人が。通常の交換率よく分からなかったが、500元を2150ルーブルに換えてもらった。

 

C.私的クーリエ・サービス

 

北京空港でチェックインの手前で、中国人の男が「聖彼得堡へ行くなら、これを持っていってくれないか。」と大声で話しかけてきた。危ないと思い私は取り合わなかったが、チェックインの際にさらに話かけてきて、「この書類は広州の会社とロシアの会社との合意書で、危ないことはない。」と言われ、中身も見せてくれて、ノヴォシビルスクの大学で学び、ロシア名はヴォロージャくん(李偉)で、さらにこの男は鞍山の出身という訳で(あとで分ったが母親が鞍山出身)、1週間後には彼もSPへ行くという。中国東北人がほかの東北人を助けないことはできないという訳で、このクーリエ・サービスを引き受けた。でも、見ず知らずの人にこんな大事なことを頼むなんて、中国人の勇気に感心した。(結局SPの空港へは相手会社の人は来なくて、翌日この会社の人がホームステイ先へ取りに来た。)

 

D.北京〜SP

 

海南航空は安くて、飛行機も大きくて、快適だった

北京〜SPの便はB767-300ERという240人乗りくらいの大型飛行機で、なかなかよかった。以前北京からモスクワへ行った人が小さな飛行機で、中国食の連続で苦労した話を聞いた。確かに、ワインは中国産で赤ワインはおいしくないし、白ワインはいったいこれがワインかというシロモノだった。でも、大連からSPへの往復が4600元弱(7万円くらい)は手ごろな値段だ。韓国経由は調べたことはないが、東アジアからロシア西部・ヨーロッパへ行くなら、この北京経由がいいと思う。

 

実はチェックインの際にクーリエ・サービスを引受けていいことをしたせいか、航空会社が席をビジネスクラスにアップグレードしてくれた。食事はエコノミークラスと同じだったし、くれた新聞は「光明日報」・「参考消息」など政府高官が読むような政治内容だけの記事の新聞で我々庶民には面白くなかったが、席が広くて悠々とくつろげた。飛行機が鵜蘭巴託(ウランバートル)・伊尓庫茨克(イルクーツク)・薩彦岒(サヤン山脈)・新西伯利亜(ノヴォシビルスク)あたりを飛んでいる午後7時半(北京時間)ころからみんなで2時間ほど寝て、鵜拉尓(ウラル)山脈・葉卡捷琳堡(イェカテリンブルグ)を飛んでいるころ起こされて、夕食が出た。

 

北京時間で24時少し過ぎにSPプルコヴォ空港へ着いたので、北京から9時間かかったことになる。空港へはホームステイ先の次男がラーダLadaの古い車で迎えにきてくれた。(この出迎えは、飛行機が少し遅れた分も含めて、あとで1000ルーブルを払ってくれると聞かれたので、こころよく支払った。)小さな空港で、荷物をガラガラ引いて、路上駐車した車まで歩いた。夜9時過ぎだったが、太陽はそろそろ沈むころで、まだまだ明るい。きょうは夏至で、この町では「赤い帆の祭り」(Aluiye Palusa Red Sails))と呼ばれる夏至祭があり、おもに高校を卒業した人たちを祝う。空港から30分で、目抜き通りのネフスキー大通りのホームステイ先に夜10時過ぎに着いて、第1日は終った。 白夜なので、カーテンをしっかり閉めて、寝た。

 

E.SPのホームステイ先

 

夏のネフスキー大通り

このホームステイ先は大連の友人の友人が紹介してくれたもので、SPのネフスキー大通り88という一番の目抜き通りの中程、コリンシア・ネフスキー・パレス・ホテルの向かいの1890年ころできた建物を上に「Кино Union」と書かれた門をくぐると中庭へ出て、正面にAnabel Hotelとある中庭に入り、すぐ右の2階に上ったところにある。ついでに、あとでわかったことも含めてキタイチューク家を紹介しておくと、主人のボリスはSP出身のもと赤軍の戦車部隊のオフィサーで、ウクライナに長らく滞在して、8年前にSPへ戻って退役したということらしく、英語が少し話せる。奥さんのリューダ(リュドミーラ)さんはヴォルガ川あたりの出身で、社交的で、英語がなかなかうまい。ただし、夏は自分のダーチャ(別荘)あるいは友達のダーチャに行っていることが多い。

 

息子さん2人のうち、長男のセリョージャ(セルゲイ)くんはコンピューター関係の仕事をしているらしく、独身貴族でこの家に住んでいて、トヨタのSRVも持っていて、週末(および週日)には自然の中で過ごすのが好き。一家がウクウライナに滞在中に、チェルノブイリ原発事件で被爆したとも聞いている。次男のゲーラ(ゲルマン)くんはもう結婚してよそに住んでいて、子供も2人あり、以前はコカコーラの卸し会社に勤めていたが、いまは他の飲料を卸す会社に勤めていて、ラダの古い車も会社から支給されている。子供がいてお金がいる時期だから、なるべく空港からのタクシーとして彼の車を使ってね、というようなことを母親から頼まれた。

 

ホームステイの楽しみの一つは、この豪華な部屋に寝ること

屋内は、玄関を入って靴を脱ぐと、まっすぐお勝手へ行く廊下があり、左手に洗面所・トイレ・シャワールームがあり、洗濯機もある。洗濯機は金属の回転部分を巻くように閉めるヨーロッパ式で、以前日本人が慣れなくて壊したそうで、奥さんにやってもらわないといけない。お勝手の奥が長男の寝室で、彼がいないときにはインターネット接続が使える。お勝手の隣りが大きな部屋で、向かいに小さな部屋(中庭=北に面している)があり、どちらかに泊まれる。大きな部屋と長男の部屋がネフスキー大通り(南向き)に面している。

 

F.ネフスキー大通りと音楽会

 

この日はちょうどノルウェイの男女の学生がけさ帰るというので、女学生がロシア語を大変うまく話すので聞いたら、中国・黒竜江省のハイラルからロシアに入ったところのクラスノカーメンスクで生まれて、父親はノヴォシビルスクに、母親がオスロに住んでいるという。ノルウェイは南部の東がブックモルという言葉(デンマーク語に近い)を話し、西側が新ノルウェイ語を話し、中部はなんとかいう違う言語で、北はサーミ語だというような、私好みの雑談をした。ホームステイ先の奥さんが外国人は2日以内に届け出ないといけないというので(中国では24時間以内)、付き合っていたら、もうお昼の時間になってしまった。

 

青銅の騎士(ピョートル大帝)

ネフスキー大通りの右側をネバ川の方に歩いて、アルメニア教会・カトリック教会・ルーテル教会などを見て、フォンタンカ川・グリボエードヴァ運河・モイカ川などドストエフスキーの小説に出ていたような川を渡り、正面の公園の向こうに旧海軍省(Admiralty)の金色の尖塔が見えてきた。そこで右へ曲がり、エルミタージュ美術館前広場へ出て、そこから公園を歩いて「青銅の騎士像」(ピョートル大帝の騎馬像)を見た。学生の時にプーシュキンが書いた有名なピョートル大帝に関する叙事詩の一節に「指導の騎士」が出てきて、いまも詩の出だしは覚えているので、実はSPに来たのも、この騎馬像を見るのがおもな目的の一つだった。そばのイサーク大聖堂に上って、SPの全体を急いで見渡して、早めにホームステイ先へ帰ってきた。このすぐ南にあるアレクサンドル1世の騎馬像は見るのを忘れてしまった。

 

帰りに「日本センター」(Tel. +7-812-326-2550)というところへ寄った。「地球を歩く、ロシア」の地図には出ているが、カザン聖堂に向かって右の道(角にСтокманнというコーヒーショップがある)を30mくらい入り、右に「The Atrium at Nevsky 25」と看板がある建物をエレベーターで4Fへあがるとある。そこで日本語を教えている、ロシア人と結婚している大平玲子さんが、私のホームステイ先を紹介してくれた山田さんの奥さんを知っていて、日本人が中国経由で来ることは聞いていたということで、世の中は狭いとビックリした。日本センターは日本語の新聞・図書などが置いてあり、来訪者が自由に閲覧できるようになっていて、日本語教授のクラスもあり、ロシアには他にモスクワ・ハバロフスク・ウラジオストック・サハリンにもあるそうで、中国では見たことはないので、便利そうだった。このあと他の日だったと思うが、日本センターに来ていた明治大学出身の学生にも会い、SP国立大学のロシア文学関係には6人くらいの日本人学生が留学していることを聞いた。

 

宿から出て左隣りのビルの2階に「CafeMax」というインターネットカフェがあるので、試しにいってみた。夜11時以降はコーヒーや飲み物一杯(80150Rくらい)でインターネット使用は無料になるが、通常は50Rで30分使えて(ノートパソコン持込みで無線LANを使っても、そこにあるパソコンを使っても、同じ値段)、飲み物代は別という。ユーザー番号とパスワードを書いた受取りをくれて、無線LANを接続して、ブラウザー(Internet Explorer)にこれを入れてやる方式だった。

 

ボリショイ・ザール音楽堂

夕方7時からボルショイ・ザール音楽堂でSPアカデミック・シンフォニアの音楽会があり、Alexander Kontorovが指揮で、ソプラノのTatyana Cnantserが歌い、ショスタコービッチ、ハチャトリアン、グリエール(ソプラノの歌)を気楽な音楽を聞いてきた。最後のアンコールは派手なドシャドシャした曲で、途中で入口のおばさんが入ってきてみんなを立たせたので、何かと思ってうしろのロシア人に英語で聞いたら、グリエールの「偉大な都市への賛歌」(The Hymn to the Great City)という曲という、やれやれ、中国の音楽会の最後の定番曲・ラデツキー行進曲(これにあわせてお偉いさんたちが退場するのを手拍子で見送る)は、こうしたロシアの習慣が変形したのかな。音楽会が夜9時に終っても、周りは白夜で明るいので、不思議な気がする。 (2009.06.23.

 

2009.06.24. サンクトペテルブルク(2):町を散歩、ルーブルに換金、ロシア語の授業、ペトロパヴロフスク要塞、ツァールスコエ・セロー

 

A.町を散歩、ルーブルに換金

 

3日目も朝食後にいろいろしていたら、出発が10時ころになってしまった。プーシュキンの家博物館にいってみようと町をブラブラ歩いていったら、火曜日は休みだった。近くの血の上の救世主教会で写真を撮って、芸術広場のロシア民族博物館へいったら、やはり休みだった。日本でも図書館などがよく月曜日に休みになるが、ロシアではどうやら火曜日に休みになるらしい。休みになるというのは、中国語でも「休息」するといい、英語では「閉じている」(closed)というが、ロシア語では「働かない」(ニェ・ラボータユット)というので、面白いことを発見した気分だ。

 

ホームステイ先の奥さんが近くの換金所が手数料20Rで安くていいいうので、行ってきた。ネフスキー大通りを東へいって、マヤコフスキー大通りとプーシュキンスカヤ通りをやり過ごして、次のトゥーシュキンスカヤ大通りで右へ曲がり、最初の小さなロータリーで左に曲がったリゴフスキー横町(ペレウーロック)のすぐ左にあるツェントル・オブミェーガSKVとかいう私設換金所で、交換率31.532.7で換えてくれた(15万円を47,230R)。米ドルとユーロはもっと売り買いの範囲が狭くて、それぞれ31.1531.4543.643.9だった。周りは武器を持った警備員がいて、ものものしかった。

 

昼食は宿の斜め向かいにあるマクドナルドで、ビッグマックを食べた。日本や中国のように、ポテトフライと飲み物が一緒になって割安になるのはメニューになかった。日本の外食産業のサービス員はニコニコ笑う訓練をまず受けるが、ここはみんな怖い顔をしていて、ストー・ソーラック(140)ルーブルを聞き間違えてソーラック(40)を出したら、ストー・ソーラックを出せ!と怖い顔で怒鳴られた気がした。そういえば、ロシア人は笑っている人も見かけるが、めったに笑わない。

 

B.ロシア語の授業、ペトロパヴロフスク要塞

 

ホームステイ先の奥さんがきのう電話帳イェローページ(ジョールヌイエ・ストラニッツイ)で調べてくれて、近くのリテイヌイ大通りにあるVera外国語教育センター(http://www.vera.spb.ru)でロシア語のレッスンを受けられるようにしてくれた。1レッスン45650Rで、少し高いと思ったが、まぁ5レッスンくらいが関の山だろうと思い、やってみた。

 

ロシア語のレッスン

ソフィアという40歳がらみの女性教師で、第1医科大学でロシア語を教えている専門家で、私は45分を1)15分をロシア語、2)5分でSPについての話題、3)15分でロシア語、4)5分でロシア語の歌を習いたいという要求をして、教師を面食らわせた。それできょうは、SPにある銀行を知りたいといったら分からないということで、SPにある大学について学び、SP国立大学をボリショイ・ウニヴェルシティェート(大きな大学)といっているころなどを知った。歌は「赤いサラファン」のロシア語歌詞で、古いロシア語が出てきて、少々難しかった。ロシア語は教科書の第10課:食べ物についてやったが、ソーセージ、チーズ、野菜など、いろいろなロシア語が覚えられないので、自習してくるといった。

 

午後4時くらいから、ペトロパヴロフスク要塞へいってきた。またまたネフスキー大通りを経ていったので、少々あきてきたが、どのバスや地下鉄路線に乗っていいか分からない。この要塞はSPの発症の地で、ここからスエーデンとの戦いに勝ったピョートル大帝がSPの町の建設を始めたところ。要塞と正教会寺院を1時間ほど見て、休憩したが、往復2時間歩いたので、夕方になっても日差しが強くて汗をかき、疲れた。

 

ホームステイ先の長男がきのう帰ってきて、インターネットが使えるようになり、2日目は夜中の12時までインターネットを使ってしまった。3日目は、夜10時半で切り上げることができた。

 

C.ツァールスコエ・セロー

 

郊外電車は両側に3人掛けベンチ

4日目は、南郊外のツァールスコエ・セロー(村)にいってきた。有名な「夏の宮殿」があるところで、まず歩いて蜂起広場(モスクワ駅のあるところ)へ行き、そこから地下鉄に乗って(20Rだった)、2駅目のプーシュキンスカヤで下りて、ヴィティェブスク駅(ベラルースのミンスクなどへの列車が発着する)でエレクトリーチュカ(郊外電車)に乗って30分のディェーツコエ・セローで下りた。そこから小型バスに乗ればよかったのを、電車で隣に座ったカナダのモントリオールから来た人が歩いても15分くらいだというから歩いたら、45分もかかって、大失敗だった。先人のいうことは、まともに信じてはいけない!

 

ウズベキスタンからの観光客

エカテリーナ公園で木々の中を散歩したり、エカチェリーナ宮殿を眺めたりして、いい空気の中をいい時を過ごした。ここの琥珀の間は予約が必要らしく、見れなかった。イスラムの国から来たらしい家族がいたので話しかけたら、英語は駄目で、ロシア語でウズベキスタンのタシュケントから来たという。旧ソ連の国々の人たちは、やはり一度はロシアの3大都市のモスクワ・SP・ノヴォシビルスクを訪れたいのだろうな。エカテリーナ宮殿に続いて学習院跡があり、プーシュキンが幼年時代をここで過ごしていて、「ツァールスコエ・セローの思い出」という詩が認められて文壇に入ったということで、私は学習院跡も写真撮影してきた。私は学生のころはプーシュキンの大ファンだった。

 

ツァールスコエ・セローの帰りは少し利口になって、20Rのバスに乗って、郊外電車駅へ着き、そこからは同じ道程を帰ってきた。これでやっと、SPの地下鉄と郊外電車に乗れるようになった。帰りに街中をよく見ていたら、KFC(ケンタッキー)もPizza Hutも近くにあった。でも、Macほど成功していない。

 

2009.06.27. サンクトペテルブルク(3):3つの小博物館、エルミタージュ博物館、怠惰な土曜日、ノヴゴロドへ日帰り旅行、ペテルゴーフ

 

A.3つの小博物館

 

5日目、ホームステイ先の奥さんからバスの1、7、11番に乗ると、18Rでエルミタージュ博物館へ行けるということで、初めてバスに乗った。

 

開館10:3010分前にいったらもう中庭にいっぱいの人が並んでいたので、そこへ入るのをはやめて、近くのプーシュキンの家博物館へいった。ロシア人の入場料は80Rだが、外国人は200Rで出したら、100Rを返してくれて、これでオーディオ・ガイドを借りなさいといってくれる。ここはプーシュキンが最後の4年間を過ごしたところで、妻に関することでフランス人との決闘での傷で亡くなったのがここで、地下室から始まって、8つの部屋を通りながら、亡くなったときの模様をオーディオガイドで聞いた。60歳くらいの女性が泣きながら聞いたので、話しかけたら、モスクワの人で、代表詩「エブゲーニー・オネーギン」の女主人公と同じ名前と父称でウンヌンといっていた。

 

血の上の救世主教会

そこからまた「血の上の救世主教会」を見て通って、芸術広場にあるロシア美術館とロシア民族学博物館へ続けて入った。入場料はそれぞれ250Rだった。ロシア美術館は「エルマークのシベリア征服」だの、ロシアの強さを見せつける巨大な絵が多くて、閉口しながら早めに出ようとしていたら、偶然レーピンの有名な「ヴォルガ河の船曳き」を見つけた。ロシア民族学博物館の方は左側に常設の少数民族の生活に関する展示があり、右側はウクライナの民俗とユダヤ人の民俗に関する展示をやっていて、面白かった。ウクライナの展示の部屋の守衛が60歳台くらいの女性で、もとポーランド人で、フルシチョフ首相がクリミヤ半島をウクライナに移管したのは大きな誤りでウンヌンのご説を拝聴することになった。

 

この日の宿の夕食は特別で、ジャガイモを煮たのと鶏肉を蒸したのが出た。深夜近くなって、このホームステイ先を紹介してくれた山田さんの奥さんが友人2人を連れて、バレーを見た帰りにここへ寄り、みんなでクレープ風のロシア菓子を食べた。

 

B.エルミタージュ博物館

 

エルミタージュ博物館

6日目、前日夕方にロシア語の2回目のレッスンを受けて、今朝はロシア語をやっとしっかりやる気になり、数字、序数、曜日、年月日などを短時間だけど自習して、覚えた。これがまともにできないと、ロシアでの旅行がまともにできないが、大体知っている。

 

あさ9時に宿を出て、9時半にエルミタージ美術館前に着いて、並んで、10時に門が開き、中庭に入り、10時半に入場が始まり、私は11時に美術館内に入ることができた。2回目のトライアルで、結局1時間半待って入ったことになるが、昨晩来た人たちは3時間半並んだというから、大成功の部類だ。私は実は、絵画にはあまり興味がないので、あまり目的を決めずにブラブラ歩いて、みんなが群がっているところは、有名な絵で、またそれらはダウィンチの「聖母子像」であったり、レンブラントの「放蕩息子の帰還」であったりした。

 

写真は自由に撮れた。

入口で素人の写真はさらに200元を払いなさいと書いてあったが、みんなそんな支払いをする人はなく、写真機を構えて自由に撮っていた。しばらく歩いたあと、何か見過ごしているなと思ったら、3階へ行くのが難しくなっていて、行ってみると、セザンヌだの、ゴーガンだの、ピカソだの絵が無数にあった。どうやって集めたのだろうか。美術館で2時間半過ごして、出てきた。

 

夜に、宿の息子さんがインターネットで(http://www.ticket.rdz.ru)、モスクワ行きの汽車のチケットを予約してくれた。行きは夜行で、帰りは昼出て夕方着で、往復6000R弱だった。ロシア語にみがきをかけて、インターネットでこういうのができるようになりたい。

 

C.怠惰な土曜日

 

第7日目は、宿の主人夫婦が友人のダーチャへ出かけてしまい、私は家で怠惰な時を過ごした。12時からロシア語の授業があり、それを終わってその近くのアンア・アフマドゥーリナの家博物館の様子を見に行ったが、結局入らずに宿へ帰ってきた。夕方スモールヌイと呼ばれるもと宮殿まで歩いて、帰りは土砂降りの雨に遭い、幸い傘を持っていたので被害は少なく、バスも「ネフスキー大通り、モスクワ駅」とロシア語で適当にいったら通じて、うまく帰ってきた。あしたは朝はやい、早く寝よう!

 

D.ノヴゴロドへ日帰り旅行

 

第8日目は、朝早く起きて、ロシア国家の発祥の地、ノヴゴロドへの日帰りツアーへ乗っていってきた。40人くらいが乗れる大型バス(中国製のYutong)に乗り、8:40に出発して3時間でノヴゴロドについて、まず郊外のユーリエフ修道院を見て、また近くの木造建築博物館も見て、その後いよいよノヴゴロドのクレムリン(城壁内)に入って、ロシア千年記念碑と聖ソフィア大聖堂を見た。ここはヴァイキング出身のルーシ族を率いたルューリックが862年にノヴゴロド王国を築き、1478年にモスクワ公国に併合されるまで、このあたりの中心都市として栄えたところで、現在のロシア国家の元となったところだ。

 

ロシア国発祥の町・ノヴゴロド

ヴォルホフ川が滔々と流れるところに面したきれいな町で、いい時を過ごした。隣にポーランドのクラカウから来たイオアンアさんが座って、聞くと会計学の修士号をもっていて、チェコの大型小売業者がアウトソーシングした会計業務をクラカウでやっているという。私は日本から大連へアウトソーシングする業務をやる会社の誘致をしているので、いろいろと情報交換して、またインターネットでね、というような話になった。

 

国道M10は片側1車線ずつで、時々追い越し車線がある

行き帰りにモスコーフスキー大通り(途中に勝利広場があり、片側3車線)から国道M10(ヴィボルグ〜SP〜モスクワ、ヨーロッパ公路E105フィンランド〜ムルマンスク〜SP〜モスクワ〜ウクライナのヤルタの一部)へ出て行ったが、ロシアでは大都市に環状高速道路・カード(КАД)は高速道路としてあるが、都市間の高速道路がまだないようで、ビックリした。モスクワ〜SP国道M10(E105の標識がある)はSP市内から出て、カードと交差するあたり(プスコフ空港がある)からノヴゴルド州(オーブラスチ)へ行くまでは片側2車線で、舗装がつぎはぎで悪く、そのあたりからは片側1車線で、時々追い越しと左折用の車道があるような道で、大型バスの運転は見ていて危なかった。(バスは何と鄭州のYutong宇通という会社の中国製だった!)隣りのポーランド人からは、ポーランドでも同様である聞き、こうした社会インフラは、高速道路があちこちにあり高速鉄道の建設もほぼ終わっている中国に比べても、ずって遅れていると感じた。

 

今回の日曜日ツアーは木曜日に1200Rで申し込んだもので、周りはみんな950R払っていたので、外国人値段だったかなぞである。あさ08:40に町中を出発して、ガイドは男性のアレクサンドルくんで、オヴゴロドに着くまでロシア語でずっとしゃべっていて、ノヴゴロドで女性のガイドに代わって、たとえばロシア千年記念碑などで詳しい説明があり、彼女が「イヴァン・グローズヌイ」というと、ああイヴァン雷帝の説明をしているなという感じで他はよく分からないので、日本語のガイドブックをずっと見ていた。行きのトイレ休みはあまりよくなくて、帰りはいいところだった。トイレはすべて10R。それから、昼食時間はなくて、どうやらみんな持参のお菓子類をほおばったらしく、帰りのバスが16:45に出る直前に30分くらい時間があり、何か食べる人はコーヒーショップへ寄ることができた。日曜日の夕方なのに、大都市へ帰る交通ラッシュはなくて、20:00ごろ町に帰ってきた。

 

E.ペテルゴーフ

 

9日目は、午前中は何かまたぐずぐずしていて、午後1時からロシア語の最後のレッスンだった。いままでの先生が都合悪くて、スヴェトラナ先生に代わり、この方はなかなか慣れた方のように見えた。「幸福とは何か」という新聞記事のようなものを読ませて、私に「あなたが幸福に感じるときはどんな時か。」と聞いてきて、ちょっと上級会話になり、苦労した。

 

そのあと、地下鉄でバルチースク駅に行き、そこでマルシュルートカ(小型バス)に初めて乗って、ペテルゴーフというピョートル大帝が開いたバルチック海に面した庭園へいって、今回はロシア語で「アディーン」(一人)といったら、外国人入場料ではなくて、ロシア人入場料で入れた。この庭園は噴水がきれいで、前日にノヴゴロド小旅行で一緒だったポーランド人が特に行くのを勧めたところだった。

 

有名な寝台特急「赤い矢」が隣りのプラットホームに

この夜、深夜00:20発の寝台夜行列車「メガポリス」に乗って、一路モスクワへ向かった。宿の人がモスクワの友人を紹介してくれて、彼のところへ泊るつもりだ。寝台車は寝台が2段になっていて、向かい合わせの4席が一室で、引き戸がついていて、寝ている時にはドアをロックしていた。深夜23:55発のクラースナヤ・ストレリャー(赤い矢)号、00:10発のエクスプレス、それから私のメガポリス号などのモスクワ行き寝台列車がいくつかあり、赤い矢号の出発の際には、先週シンフォニーで聞いたグリエール作曲の「偉大な都市にささげる賛歌」の音楽が流れたのが印象的だった。

 

2009.07.02. モスクワ小旅行:モスクワのホームステイ先、モスクワ市内見物、黄金の環とサーカス、アルバート通り、トレチャコフ美術館、モスクワ〜SP

 

A.モスクワのホームステイ先

 

列車はモスクワのレニングラード駅へ09:07の定刻通りに着き、オレーグ(オレーグ・バレンチノーヴィッチ・マルコフ)さんが迎えにきてくれていた。この日の夜の会話で、彼は大学時代に地理学を専攻して、いまは50歳くらいである。長らく、たぶん軍との契約で、シベリアの東部地域とサハリン島などをくまなく歩いて、その時に採集した鉱石などがビニール袋に入れて雑然とリビングルームにちらかっていて、いまは学際知識国際大学のレクターを務めている。彼が書いた「モスクワ〜バイカル」(2008年)というロシア語小冊子をくれたので、学者というのがふさわしく、SPへ来る時にはツルゲーネフ家に泊るらしい。186cmの長身で、シベリア踏破の彼とモスクワの街を歩くと、ついて行くのに苦労する。

 

モスクワ地下鉄の赤い路線に乗って、途中青い線に乗り換えて、その支線(メジュドゥナドードナヤ駅行き)のヴイスタヴァチュナ(展示会場)駅で降りて、クラスノグヴァルディスキー(赤色連隊)・プロイェーズド(Passage)の向かいにあるところの彼のアパートへいって、荷物を置いた。アパートは近辺に建築中のモスクワ・シティー(新宿西口のようなところ)のあるそばで、そこはそろそろ取り壊しが始まるらしく、部屋は玄関を入ると短い廊下の左に洗面所とトイレが別々にあり、お勝手へ通じていて、右にリビングルームと奥にベッドルームがあり、洗面所とトイレなど正直いってきれいでなくて、中国での経験があったので我慢できた。このあと、このアパートの付近の郵便局、銀行、雑貨店などをていねいに案内してくれて、旅行地では観光地を訪問するというよりそこの生活を見て経験して楽しむというのは、私と趣味が似ている。また、モスクワ・シティーを通り越して、モスクワ川にかかるバグラチオン橋も案内してくれた。

 

B.モスクワ市内見物

 

赤の広場(右がクレムリン、中央奥がワシーリー大聖堂)

それからすぐ彼の案内で、地下鉄でビブリオテーカ(国立図書館)駅へ行き、そこで赤の広場と近くのゴスティニツイ・ドゥヴォール(広く知られていない観光案内書がある)などお上りさんコースを見て、彼と別れて、ひとりでクレムリンに入って見た。クレムリンの内部の半分以上が開放されてなくて、ただ4つくらいの寺院と鐘楼があるところをウロウロして、写真を撮った。軽い夕食を近くのマネージュナ広場の地下のフードコート(レストランヌイ・ドゥヴォールニク)にある、ヴォストーチュナヤ(東方)・バザール前でシャウルマ(クレープのようなもの)なる、おそらくカザフスタンの料理を食べた。隣りのテーブルを丸顔のアジア人の若者たちが囲んで食べていたので聞いたら、カルムイク共和国(おおむね仏教徒)からで、どうやらモスクワ留学生の同郷会をやっているようで、モスクワには旧ソ連のあらゆる国々からの人々が集まってくるのが、サンクトペテルブルクと違うと思った。

 

それから、また「赤の広場」へ行き、夕方5時半からモスクワ市内見物2時間コース(350R)に乗った。市内は夕方のラッスアワーで混んでいて、バスが動かず、私はウッカリと居眠りをしてから少し経って気づいたら、クレムリンのモスクワ川向こうを走っていて、そこから町を出て、レーニンスキー通りを延々と走り、「雀の丘」と呼ばれるモスクワ唯一の高台で、モスクワ川とモスクワ市内を見下ろす場所で下車した。後ろに国立モスクワ大学が見える。夜8時ころ、ボルショイ劇場前の広場のカール・マルクス像の前で降ろされた。

 

「赤の広場」へまた戻り、写真を撮って感じたのは、この広場は広大な広場というより、大変身近に感じるようないい広場で、以前私が若いころは11月の革命記念日などにロケットが行進するのをテレビで見慣れていて、怖いところというイメージがあったが、意外だった。それからまたまたフードコートへ行き、今度は「カルトーシュカ」(じゃがいも)という店前でジャガイモ料理(大きな煮たジャガイモを割って、中身を粉々にしてから、野菜や肉をはさんだもの)を食べて、地下鉄で宿へ戻った。夜はオレーグさんの家で、ロシア南部のクラスノダール産のワインを飲みながら(クラスノダールへはもともとギリシャ人がワイン作りを持ち込んだという)、英語でおしゃべりをして、夜11時過ぎに寝た。

 

C.黄金の環とサーカス

 

トロイツァ修道院では修道僧が実際にいた

モスクワの2日目は、セルギーエフ・ポサード(ソビエト時代の名称はザゴールスク)へ行ってきた。北郊外にヤロスラーヴリなどモスクワよりも歴史のある小さな町がいくつかあり、ゾロトーエ・カリツォー(黄金の環)と呼ばれていて、そのうち一番近いところがこの町で、14世紀に聖セルギーエフが開いた「トロイツェ・セルギーエヴァ・ラーヴラ」()三位一体セルギーエフ修道院)があり、実際に修道僧がいて、日本語の案内書には載っていないが、英語の案内書(「Lonely Planet2009年版)には載っている。オレーグくんに聞いて、モスクワ北の地下鉄のВДНХ駅(ヴェデンハー VDeNKhaと発音=モスクワオリンピックころに開設した物産展場)で降りて聞いたら、ミール大通りを走る388バスだというので、ちょうどそれが来たのを捕まえて行く先を確かめてから乗り、1時間で着いた。モスクワから60km)のところで、黄金の環でも最もモスクワ市内に近い。村の丘の上にきれいなラーヴラ(修道院)があって、ここは修道士が実際にいる。入場は無料で、カメラは100Rと言われたが、リュックサックに入れなおして無料で入口通過して、またカメラを取り出して、写真を撮って、ランチもそこで食べた。帰りはエレクトリーチュカ(郊外電車)に乗って帰ったが、なぜか予定通り出発せず、しかも1時間40分以上もかかって、モスクワのヤーロスラブ駅へ帰った。

 

夕方は、そういえばモスクワがサーカスの本場で、昔高校生のころボリショイ・サーカスが東京へ来て、千駄ヶ谷の東京都体育館で見たことを思いついて、モスクワのボリショイ・サーカスに行ってきた。地下鉄のウニヴェルシテート(大学)駅と呼ばれているモスクワ大学のあるところで下りて、サーカス専門館で行われた。ちょうど世界のサーカスという催しがあり、ケニア・ベラルース・ルーマニア・ロシアなどの芸人たちが共演した多彩な演技だったが、昔の熊さんがたくさん出てくるサーカスではなくて、宇宙飛行士が高いところで活躍するようなシーンが続いた。あとで分かったが、モスクワには伝統的なサーカス、中国のサーカスなどたくさんあり、サーカスの都であるらしい。

 

サーカスの近くにマクドナルドがあると看板を見て、いってみたら郊外の大きなショッピングセンターで、そこの3FにKFCがあったので、そこでチキン3切れとフライと飲み物を食べた。店の名前はロスチックスKFCと書いてあり、鶏の絵があったけど、カーネル・サンダースおじさんの絵はなかった。

 

夜11過ぎに宿に帰ったら、オレーグさんが近くのモスクワ川の夜景を見に行こうと言い出して、またバグラチオン橋へ行き、家に帰って、私はワインを空けて、彼はオデッサからもらったというポートワインを飲み、私はウォツカを少々飲み、また彼の話を聞いて、1時過ぎに寝るハメになった。彼は1980年代にシベリア東部とサハリンを軍と地理探検のためにくまなく歩き、よく知っている。バイカル湖は普通シベリア鉄道が通っているイルクーツクで下りて、湖の南部を見学するだけだが、最近はイルクーツクの少し西のタイシェットからBAM(第二シベリア鉄道)でセベルバイカルスクまで外国人も行けて、そこからバイカル湖の北湖畔へ車で行き、湖を東へ渡ると、すばらしい手つかずの自然と温泉があり、ドイツ人はもうそこへツアーで行っているという。いつか一緒に行こうということになった。

 

D.アルバート通り、トレチャコフ美術館、モスクワ〜SP

 

モスクワの3日目は、オレーグさんが案内してくれて、まず地下鉄スモレンスク駅で下りて、アルバート通りという、古いロシア貴族の建物が残る歩行者天国を歩いて、横町にも入り、19世紀にゲルツェンなどがロシアはヨーロッパ風であるべきか、アジア風であるべきかを議論したところ(とオレーグさんがいろいろと解説してくれる)、トルストイが「戦争と平和」を書いたところなどを歩いた。

 

イヴァノフの聖画

それから、聖救主キリスト大聖堂を見て、その前のモスクワ川にかかる愛国橋から大聖堂やクレムリンの写真を撮ったりして、歩きに歩き、オレーグさんの大股の歩調に合わせるのが精いっぱいだった。昼12時ころついにトレチャコフ美術館(本館)に達して、入口ではロシ人価格で入場しようとしたら失敗して、外国人価格で入り、彼の解説で、ヴァスネツォフ、アイヴァゾフスキーだの19世紀以前のロシア絵画を見て(19世紀以降の絵画は新館にある)、また1階のイコンの展示では12世紀ころの有名な「トロイツァ」(Троица、三位一体)と呼ばれているイコンも展示中だった。モスクワの美術館は、SPの美術館と違って、カメラで写真を撮ろうものなら、すぐ係員が飛んできて厳重注意するような様子だった。彼のアドバイスで、イヴァノフの「民衆の前に現れたキリスト」(ドイツ人たちはこの絵だけを見にくるという)などの絵葉書をSPのホームステイ先へのお土産に買った。ロシアの画集は質がいまいちなので、買わなかった。そこから、急いで地下鉄で宿に荷物を取りに帰った。

 

中国もロシアも、美人車掌さんだ。

宿で少し休んで、レニングラード駅に行って、16:30発の特別急行列車に乗った。中央通路の左右にそれぞれ2席があるようなゆったりした列車で、ペテルブルグには予定通り22:30に戻った。列車内ではアメリカからのツアーの人たちと一緒になり、その中のミネソタ州から来たご夫婦と英語で話したり、隣りのSP人と片言のロシア語で話したりした。アメリカ人ご夫婦の奥さんからは「休暇なのだから、パソコンで仕事などしてはダメ。」とたしなめられたが、これは仕事ではなくて、私の気晴らしだからと切り返した。SPのモスクワ駅に到着したとき、ちょうど車体に「セーヴェルナヤ・パルミーラ」と書いた列車も到着して、興味あったのであとで調べたら、これは黒海海岸のアドラー発で、ソチ、モスクワなどを経由してくる列車で、この「北のパルミラ」(パルミラは中東のオアシス交易都市)とはSPの別称らしい。

 

モスクワは大変おもしろいところで、またコーカサス山脈の国々やシベリアや極東へ行くにも便利なところのようで、いつかゆっくりとまた来てみたいと思った。深夜近くSPの宿に帰ってみると、何と、私がいない間にあの北京急行で私的クーリエ・サービスをやってあげた、新しい中国の友人・ヴォロージャくんが同じ宿に同僚と2人で泊まっていて、その翌々日に彼らがモスクワへ発つまで同宿で、SPで中国語を話すことができた!幸せ!

 

2009.07.06. サンクトペテルブルグ(4):SPでソフトウェア開発、マスコミ、歌手のズィキナ、ドーム・クニーガと白鳥の湖、SPで教会通い、中国へ帰国、総括

 

A.SPでソフトウェア開発

 

ロシアへ来てから13日目は、最後のウィークデイだったので、俄然張り切って仕事関係の活動を2つした。まず、ここのJETRO事務所へ電話したら、私はJETRO大連事務所とはいい関係もあって、梅津哲也所長が11時から短時間であるがと、快く会ってくれて、ここの日本企業のこと、モスクワも含めたロシア全体のことも教えてくれた。事務所はスモレンスク聖堂の前のビルにあり、気持ちのいいところで、つい昨年にモスクワから独立した事務所を設立したばかりという。彼から日本のソフトウェア開発企業1社とロシア・ソフトウェア協会(RusSoft)の連絡先を紹介してもらって、ソフトウェア会社は電話連絡がつかず、ソフトウェア協会は電話できて、午後にそこを訪ねた。

 

RusSoft所長と

RusSoftwww.russoft.org )のヴァレンチン・マカーロフ所長さんが会ってくれて、事務所はヴァシリースキー島の国立大学があるあたりの、もと豪商エリセーエフの豪華な宮殿で、いまはサンクトペテルブルグIT・機械・光学大学の建物になっており、彼もそこの出身。この協会はもともとSPで設立され、一時モスクワへ移動したが、またもとへ戻り、そのおもな仕事はロシアへ、特にペテルブルグのハイテクゾーン2か所(ファインランド湾の南岸のノイゴルト・ストレーリナ11haと北岸のノヴォオルローフスキー150ha)へ外国企業を誘致することで、ちょうど私と同様な仕事をしていたので、今後も連絡を取り合うことにした。しばらく前に大前研一が日本の代表団を連れてきたそうで、彼の著書「The Borderless World」を置いていったとか、台湾の台北コンピューターショウへいったとかのお互いの共通点も多く、大連も紹介して、一緒に写真を撮って、別れて、あと私はあたりのSP国立大学の設立者のロモノソフの写真などを撮ったりして過ごした。

 

2か所とも場所がよく分からなかったので、タクシーを始めて使った。大通りで手をあげたら、タクシーとも何とも書いてなくて、メーターもない車が止まって、スコーリカ(いくら)と値段を聞いて、トゥリスタ・リュブレイ(300R)と答えをもらって、ソラック(100R)といって聞いて、ドゥヴェスタ(200R)で合意するというような白タクで、正規のタクシーが少ないからだろう。ああ、ロシア語の数字を急遽勉強しておいて、本当によかったと思った。帰りはバスとトロリーバスに乗ったが、運転手の他に女性の切符切りの車掌がいて、中国でもこうした情景はもうしばらく見ないので、ロシアはまだまだコスト削減が重要というより、全員就職の悪習を抜け切れていないところと理解した。

 

昼はピッツァ・ハットで食べた。中国ではピッツァ・ハットはまるごとのピッツァを食べるところだが、ここではピッツァの一切れと飲み物をオーダーして食べるような、軽食堂だった。右がピッツァ・ハットで、左がKFCで、中央が共通の食卓がある、面白い作りだった。ロシアではマクドナルドは大いに繁栄しているのが分かるが、KFC(上のモスクワ2日目参照)とピッツァ・ハットは中国での繁栄ぶりと違って、どのように展開させていいか分からない状態のようだった。

 

B.マスコミ

 

ロシアのマスコミについて大体を理解したいと思い、先日から新聞やテレビがどんなものがあるか何人かの人に聞いたが、うまく簡単に分かりやすく説明してくれる人がいなかったので自分で調べた。新聞はこの家では日刊紙「ヴィェースチ」(グラーヴナヤ・ガゼータ・レニングラーツカイ・オーブラスチ、カラー刷り)と「サンクトペテルブルグスキエ・ヴェーデモスチ」を取っていて、「ノーヴァヤ・ガゼータ」(月水に発行)などもあり、街では「コムソモールスカヤ・プラーヴダ・ペテルブルグ」(昔の青年共産同盟機関紙)がサッカーの記事などを主体にしたカラフルな新聞に生まれ変わっているのを売っている。

 

テレビは「ピィェールヴイ」(第1)、「ロシア」、「5カナル」(5チャンネル)、「NTV」など12チャンネルくらいがあり、土曜日の「ヴェースチ」紙に翌週月〜日の番組表を載せているのと、別に「テレヴィディェールニエ・ラーディオ」というテレビ・ラジオ番組専門週刊紙もある。どれがモスクワ発で、どれがSP初か分からないが、Ch.1がモスクワからで、Ch.5がSP発で、ニュースは朝7時と夕方6時が主体のようだ。ラジオは3局あり、「ラジオ・ロシア・サンクオトペテルブルグ」(66.3 MHzwww.rtr.spb.ru)、「ラジオTRKペテルブルグ」(69.47 MHz)、「ムジカールノエ・ラジオ・オルフェイ」(www.muzcentrum.ru)があり、この家ではラジオロシアを有線放送で受けているらしく、毎時にニュースと常にいい歌(比較的古い歌)を中心に放送していて、ダークダックスのロシア民謡「スリコ」も流れていた。

 

C.歌手のズィキナ

 

生前Medvedev大統領夫人(右)がZykinaに花束を

テレビの夕方6時のニュースを見ていたら、歌手のリュドミラ・ズィキナが7月1日に亡くなったというニュースがトップだった。彼女は日本の美空ひばり、フランスのエディット・ピアフのような存在で、「ヴォルガ川が流れる」という歌

http://www.youtube.com/watch?v=dt3AwWRN9tA

が大いに有名で、私もこの歌の一部を歌える。歌詞の内容は、ヴォルガ川のほとりに住んでいる女性が、13歳の時に母はこういって、もう17歳になってしまってというような若い女性の感情を込めたもので、歌詞はインターネットにもたくさん載っていて、簡単だが、私もしっかりと意味を調べたことはない。宿の主の夫妻は知っている歌だが、6年前に大学を卒業した彼らの息子は知らなかったので、ロシア文化の親の世代から子供の世代への伝承もどうやら滞っているようだ。でもまあ、私もよくもまあこんな歌を昔習って、いまも覚えていたなとつくづく感心した。

 

D.ドーム・クニーガと白鳥の湖

 

ロシアの14日目は、一日中小雨が降って、気温が11〜13℃と寒く、観光に出かける気がせずに、午前中はまたブラブラして、午後ネフスキー大通りのドーム・クニーガ(本の家)と呼ばれている本屋へいって、ロシアの歌の本10分冊のうち第1・2分冊、世界地図を買い込んできた。私は地図が大好きで、ロシア語の地図は以前から欲しかったが、いい機会がなかった。ここはかつてのシンガー・ミシン社の歴史的に有名な建物の1、2Fを占めていて、2Fには「シンガーCafe」もある。

 

バレー:白鳥の湖

本屋へいった帰りに、ネフスキー大通りのアルメニア教会の右手にあるチケット売り場(テアートルナヤ・カッスイ)でバレー「白鳥の湖」の切符を買った。切符の値段は460670136001760Rがあるといわれ、どうやら外国人には普通の値段に100160Rくらい上乗せして売っているようだった。バレーは夕方8時から国立ドラマ劇場という小さなところで、2時間半の公演だった。正直言って、私はバレーを見るのが初めてで、まぁチャイコフスキーという人は白鳥の群れといういいテーマを見つけて、それに沿って、王子や、悪魔や、それにとらわれた王女だったのだろうかを登場させて、様々な曲でいろいろと踊らせて、黒い白鳥も登場させるようなのを、よくも作ったなと感心した。いつか彼の3大バレーの残りの「くるみ割り人形」、眠れる森の美女を見てみたい。

 

D.SPで教会通い

 

ルーテル教会で礼拝

ロシア滞在の15日目は最後に日で、前日と同じく、小雨の日だった。日曜日なので教会へ行ったが、私は東京ですでにロシア人の正教会へいったことがあるので(文京区にあるポドヴォリエ教会)、正教会へ行くのは避けて、まずネフスキー大通りにある聖カタリナ・カトリック教会のミサにいった。少し遅れていったのと、福音書の朗読はマルコのイエスが故郷ナザレでは理解されないところと分かったが、堂内の反響がすごくてよく聞き取れない。続けてマーラヤ・クニューシカ街のスエーデン福音ルーテル教会で英国聖公会教会の礼拝を11:00からやっているのをインターネットで調べておいたので、そこへいったら、総勢20人くらいの出席者だった。福音書の朗読は、マルコのイエスが弟子に二人ずつ宣教に出発しなさいというところで、カトリックの福音書朗読個所と同じはずだが、なぜか違っていた。礼拝が終わり、コーヒーの時間に聞いたら、長老派などの人たちもきていて、異口同音に英語礼拝はそこでしかやっていないのでということだった。

 

SPには韓国人の宣教師もたくさん来ていて、この教会堂でも、ロシア語と韓国語の礼拝が行われていた。このスエーデン教会堂を出て、裏のボリショイ・クニューシュカヤ通りにはフィンランド福音ルーテル教会、ネフスキー大通りに戻ってドイツ・ルーテル教会を見て、写真も撮ったりした。SPはピョートル大帝以来の宗教緩和策で、ロシア正教会以外のもいろいろな教会があり、いずれもソ連時代は水泳プールや体育館になったりしたが、いまはそれぞれが教会として復活してきている。

 

プロドゥクトィ(食料品店)

午後は近くのマヤコフスキー大通り(@ネクラソフ大通り)にあるいくつかの食料品店が並ぶ「プロドゥクトゥイ」で、ロシア式パン(フレーブ)、チーズ、魚の燻製(さけとさば)、大型チョコレート(ポーランド製)、ロシア式教会の飾り用お皿などを買った。またお酒専門店「AM」で、ロシア南部やウクライナ・クリミア地方の赤ワインを1本180Rくらいで買った。(あとで分ったが、後者は甘くてダメだったので、やはり日本も昔そうだったが、甘口かどうか聞いて確かめるべきだった。)中国の会社の同僚たちから頼まれた化粧品は「リヴ・ゴーシュ」(フランス語で「左岸」)というチェーン店がロシアのそこら中にあり、そこでは資生堂製品はまだ少なくて、イタリアとデンマークの口紅が売っていたので、珍しいので200300Rのを買ってみた。ホームステイ先の奥さんが、簡単な壁掛けカレンダーとイコンの画集をおみやげにくれた。

 

E.SP〜北京〜大連

 

ホームステイ先で夕食後、主人夫婦の次男に飛行場まで送ってもらい、22:30発の南海航空に乗って北京へ向かった。飛行機は留学帰りの中国の学生でいっぱいで、何人かと話したら、レーピン美術大学、技術大学(ポリテクニック)、第1医科大学の歯学部大学院など、いろいろだった。中国とロシアは仲がいいわけではないし、ロシア語を習ってもあまり役に立たないので、おそらく中国で大学が足りないのだろう。北京空港へ着く時に、みんなが拍手したので、こういう拍手は悪天候の時の無事の着陸に乗客が自然にするもの以外に出会ったことはないので、故国へ帰った喜びだったのだろうと思った。

 

翌朝9:20に北京首都空港に着き、南海航空の大連行きは21:15発しかなかったので、空港近くの豪雅酒店Hoya Hotel(三つ星ホテル)で無料休息させてもらい、第1ターミナルの上島コーヒーで夕食と無線LANを楽しんで、夜10時過ぎに大連へ戻った。多少心配していた豚インフルエンザについては、ペテルブルグでの入出国では何もなかったが、北京の入国にはまず機内で航空会社が各人にピストル状機器で体温検査をして、それから空港の検査官が来て二重の検査をして、空港内では健康自己診断カードをパスポート情報としっかり照らし合わせるようなことをやっていて、それぞれ15分くらい待たされたが、それほど気にならなかった。

 

F.ロシア旅行の総括

 

これで高校時代から抱いていたロシアのなぞも、だいぶ解けた気がする。短い経験であったが、特に中国との比較で総括すると、

1)            ロシアの「二都物語」を上に書いた気がする。ロシアで西欧とアジアの混合体を探したいならモスクワへロシアで西欧を探したいならサンクトペテルブルクへ行くといい。

2)            ロシア人はきれい好きで、規律も正しい。これは中国と大違い。SPでは、家の中もきれいで、街にはチリひとつ落ちていないし、歩行者も横断歩道で横断するし、信号を守っている。

3)            公共投資は中国と比べても、大幅に遅れている。自動車専用高速道路もないし、高速鉄道もドイツ・ジーメンスから車両(サプサン)をまるごと輸入して、在来線をシコシコと利用してゆくようだ。高速道路が全国をめぐっていて、旅客専用高速鉄道も間もなく始まる中国とは、ずいぶん違う。

4)            バスはまだワンマンでなくて、車掌がいて、コストがかかりすぎている。鉄道駅でも、空港でも、写真を撮っていたら、職員におこられた。中国ではこういうことは一応いけないことになっているが、もううるさく言う人はいないし、ワンマンバスが普通だ。

5)            中国ではもう昔懐かしくなってしまった観光地や劇場での外国人価格が、ロシアではまだまかり通っていて、観光をしていても気持ちが悪い。

6)            ロシアはいまグルジアと仲が悪いが、理由が分かった。ロシア人はスターリンが大嫌いで、赤の広場にあるレーニン・スターリン廟からも彼を追い出してしまい、なぜこんな男にレーニン以降の専制を任せてしまったのだろうかと自問していて、とりあえず彼を生みだしたグルジアは大嫌いという気持なので、これを解くにはしばらく時間がかかる。

7)            これを機に、ロシアをもう少し見てみたいと思う。いつか黒海海岸、ヴォルガ川、ドン川、コーカサス山脈、バイカル湖などへも行って見たい。またウクライナも。英語でも旅行はできるが、やはりロシア語をもう少し勉強して、あれこれと試してみたい。

 

以上

 

 

Created on July 9, 2009. Updated April 17.2017.

 

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