アカシア便り71(水師営の変遷)                   '98-03-01  

 今回、中国の会社に勤めて初めて春節の長期休暇をとって日本に帰った。3週間の

休暇はあっという間に過ぎ去った。その間旅順児童教育後援会の川畑会長にお会いした

時『旅順ニュース』を年1回発行するから現地情報を寄稿してほしい旨の依頼があった。

編集委員の佐藤さんは『まだ旅順に行ったことのない人を主対象とし、V水師営の現況V

という題名でその移り変わりをまとめてほしい』ということであった。あらかじめ題名

が付けられたので、思い付くままに書いていた今までと違い、文章のまとめ方が難しい。

 『水師営』については、戦前では日露戦争後の乃木将軍とステッセル将軍の会見所で

有名であったことは、後援会会員の方たちはみんな知っている。そこで以下のように

まとめてみることにしよう。

 96年7月に人民解放軍の北方艦隊基地である旅順の部分開放が旅大鉄道の線路の

西北側と決められてすぐに、東鶏冠山の堡塁が玉砂利を敷いてきれいに整地され、立派

なV旅順日露戦争陳列館Vが建てられた。そして、97年5月には『水師営会見所』が

装いも新たに『なつめの木』とともに復活した。中国では風光明美な上に過去の歴史

遺産が豊富な旅順地域全体を『愛国主義教育基地』として指定している。『愛国主義教

育基地』の趣旨はV過去の国辱を忘れずに、輝かしい未来を創って行こうV、その

ためには日本軍国主義の犠牲者である日本国民とも力を合わせて世界平和のために貢献

しよう、というものである。中国人なら小学生から観光客にいたるまで、一度は美しい

旅順を訪れ、白玉山に登って塔の上からはるか旅順港口を眺め、翻って広々とした田園

風景を眺めてV我愛祖国Vの感慨にふけり深いため息をつくものである。

 『水師営』には小学校5年の時に遠足で行った。はるか50数年も前のことなので

はっきりしたことは覚えていないが、ひなびた農家のそばに貧弱な『なつめの木』が
植えられている『会見所』を見学した後、牧場のような広々としたところで弁当を
食べたり、陣取りゲームをして遊んだことを思い出す。『水師営』からはバス通学を
していた人もいたので、バスに乗っての遠足であったに違いない。

 父が関東州庁の官吏であったため、わたしは金州で生まれ、金州小学校から大連の

光明台小学校、旅順第一小学校と転校し、旅順中学校入学の年に終戦を迎えた。父は

旅順民政署の経済課長として中国人の面倒をよくみていたことと、中国語の教師をして

いた関係で中国人とのつきあいが広く、休みの日にはよく中国人の家に遊びに行った。

 『水師営』という地名を聞けば、父に連れられて行った農家のことを思い出す。豚も

鶏も犬も放し飼いにされていて、軒下ではめんどりの羽根のしたで孵ったばかりの雛が

飛んだり跳ねたりしながらピヨピヨと忙しく走り回っていた。いちご畑で摘んだばかり

のいちごをたらふく食べておなかを壊したり、果樹園に入って果汁の滴る大きな洋梨

(ひょうたん梨と言っていた)を口一杯に頬張ったことなどが懐かしい。

 食料の乏しくなった戦後も、農家の人が用意してくれた荷馬車に乗って『水師営』

に行き、ごちそうになった。その頃は、ソ連と中国の官憲の目が厳しくなっており、

迎えの荷馬車に積まれたむしろの下に隠れてゴトンゴトンと揺られて行った。

 今にして思えば、このふところの深い農家の人たちも『地主階級』であったため、

右派分子の最右翼として不遇な運命を背負って苦労したに違いない。

 終戦後10月初旬旅順を追われ、1台のトラックに家財道具を積み込み家族全員が
乗って大連に疎開したのが『水師営』を通った最後であった。

 さて、現在の『水師営』は戦後の変遷をどのようにくぐり抜け、これからどのように

発展していこうとしているのだろうか。

 戦後進駐してきたソ連軍は『水師営』のことなど眼中になく『会見所』は長い間放置

されていた。それが日露戦争の遺物であることが分かってからすぐに『なつめの木』
などはとり払われ、土壁の一軒家であった会見所は物置小屋のように使われていた。
95年に訪問した時に『なつめの木』の跡が窪地になっていたのを見たことがある。

 それが97年5月にきれいに玉砂利を敷いて『会見所』の看板も新しく、観光名所と

して復活した。年代がかった大きななつめの木もそれらしく植えられている。

 アカシア祭りなど大連の3大イベントの一つであるマラソン大会が97年10月に

催され、『水師営』を起点に大連運動場まで42.195kmが駅伝コースとして脚光

を浴びたのが目新しい。これはNHKの衛星放送で11月29日に『赤い絆』という

題名で1時間番組として放映されているのでご覧になった方も多いであろう。日中合弁

企業の人たちが一丸となって中国人3人と日本人3人が1チームで、赤いたすきを受け

つぎながら完走するストーリーは、仕事の様子を織り混ぜながら迫力あるものであった。

 『水師営』の現在は、農村の都市化という市政府の方針に沿って町造りが進んでいる。

表通りから見た限りではのどかな田園風景を見るのは難しい。バス通りは広く、高層建築
が建ち並び、自由市場も品物は豊富で都会で見かけるのと変わりがない。

 93年秋に南関嶺の管理幹部学院の張教授に初めて旅順に案内された時、旅順の農家の
人たちは他地区の人たちに比べて生活が豊かだということを聞いた。この時、なるほど
赤い屋根に青い窓枠を付けた中国独特の2階建ての新築家屋が多かったのを、今でもよく
覚えている。この4年余りの間に、農村の都市化が大幅に進み高層の建物が林立して
表向きはきれいになった。表通りには雑貨店や食品店、海鮮料理店などもあり、カラオケ
バー、サウナ、ナイトクラブなどもある。農村の都会化というこの傾向は南関嶺や金州の
ような田舎に行っても変わらない。

 大連では日本人を含めた外国人が路線バスに乗っているのを見かけることはまずない。

一般の中国人の人たちと同じ生活を心掛けている私たちは、タクシーに乗るのは稀で、

もっぱらバスを利用している。生まれ故郷の金州に行く時などは汽車に乗ることも多い。

大連から水師営までは車で直行すれば40分ぐらいであるが、バスに乗ると1時間半は

たっぷりかかってしまう。バスは出来るだけ多くの客を乗せようとして停留所で長時間

客待ちをするのが普通だからである。たまに、新聞の投書欄でもっと早く走るようにと

いうクレームを見かけるが効き目はない。

 さて、わたしの大連滞在も4年目になり、目覚ましい大連の発展ぶりをしっかりと

見て来た。初めて大連を訪れた日本からのお客さまを空港から市内に迎えた時、最近

では決まって大連という町が大変きれいだという印象を洩らす人が多い。市政府が

『国際都市を目指す大連』『北方の香港』という方針を高らかに掲げ、他都市とは

はっきりと一線を画した清潔な町造りを目指している。高層建築群と中国風の彩り豊か

な明るいライトアップは『これがあの大連か!』と思わせるような変貌ぶりである。


                 アカシア便り71(ワンマンバス)                    '98-03-08 

 日本ではバス会社は一般に運送サービス業と位置づけられているが、中国では
相変わらず官営でお客様不在のサービス業が多く、乗せてやる!いやなら乗るな!と
いう態度の振る舞いが幅を聞かせている。文化の進んだ大連市内のバスでも5角で
乗れるバス料金のワンマンバスでお釣りを用意してくれるという発想がないために
2倍の1元を払わせられることはざらで、時には運悪く5元しかない時は、お釣りを
もらえずに10倍のお金を払って泣き寝入りをさせられることもある。

日本では考えられないことである。