アカシア便り−45(プロファイル、戦争の傷あと)           96-10-31

 IBMの定年退職者の集まりに『親鴨会』というのがある。定期的に機関紙の

『親鴨だより』を出しているが  私のVアカシア便りVの一部を掲載してくれている。

この会の役員をしている人に 2月に帰省した時に参加した『東京ぶらり散歩』で

お世話になり しかも 兄の友人でもあることから お礼かたがた 近況報告の形で出した

のが 掲載されたきっかけである。その内容は いきなり 大連外国語学院・金州分院での

苦労話であったため 自己紹介もしないままに 読まれた方には 何のことか よく分から

なかったのではないかと思う。 そこで 現在 このような特異な生活をするきっかけに

なった経緯などを記して 自己紹介をしてみたい。

 私は1933年に 当時 関東州といわれていた遼東半島の一角・金州(現大連市

金州区)に生まれた。関東州庁の役人をしていた父の転勤に伴って 金州小学校から

大連光明台小学校 さらに 旅順第一小学校に転校し 旅順中学校に入学した年に終戦

を迎えた。それまでは 何不自由もない生活をしていたのが 旅順が軍港であったため

進駐してきたソ連軍の命令で 日本人全員が強制立ち退きになり 大連で仮住まいを余儀

なくさせられた。1947年3月に 日本に引き揚げるまでの1年半は 大連第一中等
学校に通いながら 道端で立ち売り行商のようなことをして 生活していた。

 このような幼少年期の原体験があるため 中国へ回帰したいという気持ちが胸奥深く

秘められていたのか 定年退職2年前に JICAのシルバー協力隊員(青年隊員は
40才まで)に登録し チャンスをうかがっていたのである。それまでにも 西安の
西北大学に1か月の短期留学をしたり 抗州から北京にいたる京杭大運河の1800Km
を6年間かけて自転車で走破するグループに参加して 普通の観光旅行では味わえない
体験を重ねていた。ところが いよいよ定年となり 退職の挨拶回りをしている時 イン
ターンシップ・プログラムでの学習後 大連に派遣されていた先輩から『中国に興味が
あるなら 私の後任として日本語教師をやらないか』との声がかかり タイミングよく
そのノウハウを伝授してもらった。

 そこで 早速 大連へ飛び 中国の先生方に根回しをすると同時に 日本語教師としての

勉強にとりかかった。1年・420時間以上で学習すべきアルクの通信教育を6か月で

修了し 最後の論文2編は 現地で実地体験をしながら書き上げ 無事 パスすることが

できた。一方 JICA協力隊員として採用される見込みがないかどうか 本部に問い
合わせたところ 中国問題は 日本シルバー・ボランティア(JSV)という組織で取り
扱っていることがわかり 早速 手続きをしてもらうことにした。JSVは 外務省の
外郭団体であり 中国側の窓口が 国務院の科学技術交流中心というところで 国家間で
身分が保証され派遣された形になっているのが大変ありがたい。JSVからは 派遣
される本人の航空運賃と傷害保険が支給され 現地の学校では 宿舎と生活費が手当と
して提供される。ただし 同行するかみさんの航空運賃と傷害保険は自弁である。

 1993年10月に 46年ぶりに第2の故郷、大連に帰ったのだが 夕刻8時に到着

した後 空港からホテルまで約40分 マイクロバスで送ってもらう途中に見た 市政府

庁舎(旧関東州庁)から中山広場(大広場)までは はっきりと記憶の底にある風景と

同じで 目を凝らせて 半世紀近くも心の中に秘めていた夜景を見つめた。

ここは 私が生まれてから13年間育った土地である。かって 大連はV東洋のパリVと
言われていた。それは 日清戦争(1894年)後の下関条約とその後の三国干渉で
ロシアの租借地となったあと 当時は 青泥窪と言う一漁村であったところに ロシア人の
あこがれの街であったVパリVを模して 長年の夢であった 東洋の不凍港を建設しよう
とした名残りである。1905年の日露戦争後に 再び日本の租借地となり 都市設計
の基本方針を受け継いで開発されたのが この大連である。かっての日本の植民地の中でも
おそらく 最も美しい都会であったにちがいない大連をV懐かしい故郷Vと思っている
のは 大正から昭和一桁の時代に 当地で生まれ育った人たちであろう。日本の統治は
40年であったが 今は中国の領土に戻り 新生中国の先頭集団を走っている沿海都市の
一つであり 中国人にとってもあこがれの土地である。

 このような環境の中で 日本語教師として奉職して すでに3年目になった。こちらで

生活してみて 中国の視点で第二次世界大戦を振り返えるチャンスが多く 日本の教科書

では触れられていない傷あとが いまだに 根深くうずいている場面がたくさんあること

に気づいた。中国は 過去の日本の侵略の禍根を随所に残している。
日本ではサンフランシスコの平和条約で『戦後は終わった!』と言い オリンピック
の東京開催をきっかけとした高度成長期に すばらしい技術力を背景にして国際社会の
中に大きな地歩を築いてきた。しかし 過去の日本の侵略を受けたアジアでは 戦後
50年以上たった今でもV戦後は終わっていない!Vのである。それは 毎日見ている
テレビや新聞で 侵略を受けた人々が かっての戦争をどのように受け止め 感じている
かがはっきり分かる。毛澤東はV日本人民も 中国人民と同じく 日本軍国主義の犠牲者
である!Vと言って 国交を回復し 今では 小学生のころからそのように教育され 一般
の人々にも浸透している。しかし 一般の日本人は犠牲者にはちがいないが 加害者でも
ある一面をどうするのか!

 最近のテレビでは 毎日のように『長征勝利60周年』記念番組が報じられている。
その報道では以下のようなトーンで述べられている。

 1931年九・一八事変後に 日本帝国主義者によって東北3省が強占されて『満州国』

が成立したことで 国家存亡の危機として位置づけられたこと。そして 1934年

10月10日に 毛澤東の指揮のもとに 中央紅軍主力8万6千人の兵力で長征が開始

され、1935年1月に遵義を占領し 中共中央政治局拡大会議が召集されて

それまで 4年間にわたり 中国革命を危機に直面させた 王明のV左V傾冒険主義が

終焉し 毛澤東と周恩来の指導体制が確立された。1936年末まで続いた 紅軍長征の

各地の戦闘で 国民党政権は徹底的な打撃を受け 中国共産党の革命主張が広範に浸透

した。このV長征Vは 中国共産党の生死を分けた重大な転折点であり これによって

全国革命勝利の基礎が確実なものになり 続いて 抗日前線陣地に突入して 最後の勝利

を導いたのである。今年は ちょうど『長征勝利60周年』にあたり 10月22日には

紀念大会の席上で 江沢民主席が講話を述べて その重要性をテレビ、新聞を通じて

トップ記事で報じていた。そして V長征Vというドキュメンタリー番組が 連日テレビ

のゴールデンアワーに登場し 万水千山の艱難酷苦を乗り越えて 多くの革命烈士の犠牲

の上に 現在の中国があることを強調していた。

その中で 特に ぎくりと来たのが 革命烈士記念碑に取りすがって泣いている老婦人
の姿が 繰り返し繰り返し報じられ 親兄弟姉妹がこのV長征Vに参加して 犠牲になり

革命烈士として顕彰されている場面であった。この老婦人はV長征V当時 19才で

あったということで 『日本狗強盗的侵略』という字幕が2度も3度も出ていた。
ドキュメンタリーに登場しているアナウンサーも 群衆もみんな もらい泣きしている。
日本では 第二次世界大戦のことなど話題にもならない昨今だが すぐ隣の国では
いまだに Vあの国辱を忘れるな!(勿忘国辱)Vという標語がいたるところに充満
しているのである。

  日常 接している中国人は 人懐っこくて 言葉にも態度にも 全身で親愛感を表現する

人が多い。しかし 中国の現在の指導層の人々は 56の異民族を 一つの旗印のもとに

統一していくためには 繰り返し繰り返し 中国共産党が築いてきた新中国の建国精神を

説いて 人民を鼓舞する必要があるのではないか!

 それは 地名の付け方にもあらわれている。先ず 革命に因縁のある日付を地名に取り

入れていることで 五四路、一二九街、七七広場、五一広場 等々がある。

五四路は 1919年5月4日(日)に 北京の学生3千人が 第一次大戦後の平和条約

を不公平な内容として拒絶するために 天安門広場で集会を開き 続いて示威行進をして

多くの同士が逮捕されたことにちなんでいる。V中国革命史Vでは この運動は 徹底
した反帝反封建の愛国民主運動で 革命史上 最も重要な位置づけであり 新民主主義革命
の偉大な発端となったと紹介している。

 一二九街は 1935年12月9日 中共北平地下組織と北平学連の組織下にある学生

6千余人が骨を刺す北風の厳寒の中をデモ行進した ことにちなんでいる。この時の

軍警の鎮圧で30余人が逮捕され 100余人が受傷したが  この運動が全国的な規模

に拡大して 中国共産主義青年団が V抗日救国のため 全国の学生と各界同胞に告ぐV

と いう宣言を発表して 決起を呼びかけた。。

 七七広場は 1937年7月7日夜 日本軍第一連隊第八中隊が 北京効外の盧溝橋北の

竜王廟で軍事演習をしている時 一兵士を見失ったとして宛平県城に侵入 捜査すること

を要求。中国駐屯軍は この無理な要求を拒絶したため 日本軍が砲撃してきた。中国

守備隊・第二十九軍の一部が これに奮起抵抗したのが全国抗戦の序幕になった。

中国では これをV七七事変Vと言っているが 日本ではV支那事変Vと呼んでいた。

五一広場は メーデー(国際労働節)を記念して名付けられたものである。

 鞍山でも 市の中心部に二一九公園がある。これは 2月19日に 国民党統治区から

解放されたことにちなんで名付けられたものである。

 客観的に中国という国を見る時 国情が違うので当然といえば当然なのだか 日本人の

理解を越える現象が 日常茶飯事に発生するので 戸惑うことも多く それだけで辟易

してしまう人も多い。私のような 中国に原体験を持つ者の感覚から見れば、それが良い
とか悪いとか 性急に判断できるものではない。むしろ そのような性急な判断しか
できない人は 中国の5千年の悠久の歴史の中で 日本と中国がどういう関係にあった
のかを考えるとよい。一衣帯水とか 言うことはよく言われるが 原点に返って民族の
違いに想いをはせるのも悪くはないと思う。