アカシア便り−17(日中交流は子供から)              1995年 5月 3日

 4月27日から5月1日まで4泊5日の日程で,旅順児童教育後援会のメンバー17

名が旅順市民と交流するためにやってきた。この後援会は これからの日中交流の礎は

子供たちにあるという趣旨から旅順で小学校時代を過ごした人たちが集まり,川畑文憲

会長が音頭を取って発足したもので,現在会員は約500名前後いるそうだ。今までの

活動は,旅順の実験小学校といわれている九三小学を拠点にピアノやLL機器等教育設

備を寄贈したり,九三小学の学童の日本へのホームステイ招待等,民間レベルでは非常

に高邁な思想に基づいて活動している。昨年3月12日の植樹祭には,爾霊山の麓に1

300本の桜の苗木を寄贈したので、今年の訪問はその第一回目の花見と九三小学の生

徒たちやその親たちと交流するのが目的であった。

 私たち2人は現地参加という形でこの交流会に合流したが,旅順口区区長、教育委員

会、対外経済貿易委員会等のお歴々が2日間にわたって歓迎会を始めとして,授業参観、

交流会、歓送会等を催してくれ、民間交流の役割を立派に果たすことができたと思う。

 4月28日の九三小学での授業参観では,先ず音楽活動の一端を参観した。2年生以

上の児童によるバイオリン合奏やコーラス等を聴いた。なかでも 最後に 日本語で歌っ

た『さくらさくら』のハーモニーは圧巻であった。それにもまして,この子供たちの表

情を見ていると,国境を越えた交流が如何に大切かということをしみじみと感じた。世

界中の子供たちに共通した可愛らしい仕草や表情を見ていると,なぜ国境というものが

あり国と国が争って何の罪もない人々が,その多くは子供たちが苦しまなければならな

いのか、大人のエゴが優先する社会が見当ちがいなものではないかと思われてならない。

 次に日本語クラスの授業を参観した。 日ごろの日本語教育の成果が,早口の先生の

指示によって進められた。私が教えている大学の学生たちにも共通したことが言えるこ

とだが,もっとゆっくりと表情を伴った話し方が指導されると本物の日本語教育が定着

するのではないかと惜しまれる。このあたりは中国人の先生が日本語を教える限界のよ

うなものがあるのではなかろうか?!

 授業参観の後は,教育委員会主催の歓迎昼食会である。その後,バスで旧市街と新市

街を2往復して参加者の昔の自宅を車中から訪問したり、想い出多い黄金台海水浴場を

訪れ散策したりした。夕刻近くなって,答礼宴のため渤海湾に面した羊頭窪の旅順開発

区へ向かった。途中,新市街の外れにある旅順唯一の外人向けホテルの前を通過したが、

これは香港との合弁でできた2つ星のホテルだということだった。

 二日目は,爾霊山−二O三高地(現在は后石山-ホ−シ−シャン)の麓にある『桜花

公園』で交流会が開かれた。期待の桜の花は植樹後1年であり,その上市内に比べて低

温ということもあってまだ満開にはなっていなかった。ここでは生徒たちの文芸番組を

中心に,日中両国の母親たち10数名による『大海は故郷(ダ−ハイ・ア・グ−シャン)』

のコーラスなど和やかなうちに約2時間がアッという間に過ぎた。名残は尽きず,次回

の訪問を約してみんなと別れなければならなかった。

 その後,バスは爾霊山の頂上まで行き,日露戦争の重要な戦略拠点としての俯瞰を眺

めることができた。参加者の中には思わず詩吟をうなっている人もあり、それだけの雰

囲気のある古戦場ではあった。60〜70才代の参加者にとっては,小学校の時の遠足、

中学校時代の寒中マラソンなど,それぞれが想い出を持つ懐かしい山である。頂上から

の下り道はこの辺の地理に詳しい先輩の誘導で,道なき道を歩き松林を掻き分けながら

無事バスに戻った。正午を過ぎてまた旧市街へ戻り,今は中学校になっている旧高等法

院の佐久間さん宅を訪れ,その後,旅順口区主催の歓送昼食会が終わったあと,30分

間の自由行動が認められた。

 そのわずかな時間に思い出の地を慌ただしく訪問したり,遠くからかいま見たりする

ことができた。私も民政署のそばにあった旧わが家を訪れた。 高低差のあった土地が全

部埋め立てられており、 現在は小さな煉瓦家屋が密集していた。裏にあったりんご畑は

見る蔭もなく高層アパートが建っていて,大きく様変わりしていた。すぐそばを走って

いる旅順南路を隔てて西側は海軍の施設になっているため,よくスケ−トをした蓮池や

富士池、それに悪ガキのころ通った小学校には行くことができなかった。旅順駅に行く

近道として利用していたベロフ洋品店から東洋橋を渡った狭い商店街は,海軍基地の一

部になっているのか,バスは白玉山に沿った道しか走れない。

 この30分間の自由行動が50年間の空白を埋める唯一の時間であり,それでも,そ

の変貌を目の当たりにしただけで充分に満足した気持ちでバスに戻ってきた。

 昼からは,東鶏冠山に行って日露戦争の遺跡を訪ねた。ここは難攻不落の要塞で4か

月にわたる争奪戦が繰り広げられ、工兵隊が現地人の手引きによって坑道を掘り進み,

敵・味方双方で多くの戦死者を出しながら攻略した所である。当時,呉家房村と言って

いた平和な農家の村落は,戦争が終わった時には僅か5つの部屋だけしか残っていなかっ

たので五間房村と呼ばれたと説明されている。

 その後,かの悪名高い旅順監獄を訪れたが,ここは5分間しか時間がなかったので,

内部を参観することはできなかった。 伊藤博文をハルビン駅頭で暗殺した朝鮮の英雄・

安重根はここで処刑されたそうである。また,金州南山にあった乃木大将の有名な『金

州城外斜陽に立つ』という石碑が,戦後,真っ二つに割られ、その片割れが日本侵略時

代の重要記念物として現在ここに保管されている。もう一方の片割れは,発見された時

には木っ端みじんに壊されていたそうである。さらに,旅順観光案内図には日本軍国主

義分子・乃木希典となっているし、日清戦争(当地では甲午戦争と言う)では,189

4年11月22日,旅順に侵攻した日本侵略軍が乳飲み子を含めた二万数千人の同胞の

血腥い大屠殺(中国語ではこのように表現されている)が三昼夜にわたり行われたこと、

翌年春には,虐殺された同胞を合同火葬して埋葬したのが現存している『万忠墓』であ

ると記載されている。昨年11月22日には,ここで盛大な百周年記念追悼行事が執り

行われており、その時の新聞には『万忠墓』を愛国基地として永遠に記憶しようという

キャンペーンが展開され、『この国辱を忘れるな!』と言う趣旨で2〜3週間にわたり

関連記事が連載されていた。

 今の大学生たちは過去の日本の侵略は一部の軍国主義者の仕業であり,多くの日本国

民も被害者で罪はないと教育されているそうで,日中友好交流は今後も大切だという意

識が浸透している。旅順を訪問する日本人は,その背景をしっかり踏んまえて懐古趣味

だけが先行した高歌放吟は厳に慎まなければならないと思う。不凍港を求めたロシアの

南進や日本軍の侵攻などは,中国にとっては大変迷惑なことであり清朝政府の腐敗があっ

たとは言え,主戦場となった旅順だけではなく,大多数の中国人に未だに複雑な感情と

して残っているのが現状である。

 旅順訪問の最後は,乃木大将とステッセル将軍の間で旅順戦役終焉の会見が行われた

水師営である。1945年に進駐してきたソ連軍は,40年前,当地で最後の敗戦処理

をしたことを全く知らなかったそうで,中国人に教えられて初めてその遺跡を潰しにか

かったということである。現在,棗の木の跡は窪みになって残っており、当時の粗末な

民家は土塀の倉庫になっていて窓もなく中を覗くことはできなかった。

 この後援会の交流活動は,旅順の九三小学と日本の小学校との交流もあり,間違いな

く次の世代の子供たちにも受け継がれて行くであろうし、第一世代の今回の訪問団に続

いて,次世代の相互訪問やホームステイなどの活動が続けられて行くことを確信してい

る。中国人小学生が日本を訪れた時に感じるカルチャーショックは,日本の若者が中国

を初めて訪れた時に受けるカルチャーショックと基本的には変わらない。このような交

流は若ければ若いほど感動も深くなるし,新鮮な驚きと世界人としての心構えも胸の中

にしっかりと刻み込まれることは間違いない。お互いに分け隔てなく庶民の生活をさら

け出して交流することが,もっとも効果があり大切だと思う。

 私のようなロートル(老人)でも当地へ赴任して7か月になるが、未だに中国人の考

えがよく分からないで戸惑うことが多い。そして 日本人は本当に中国を理解できるの

だろうかと考える。

 中国では,ある現象や中国人の言動を観て中国とはこのような国なのかと理解したつ

もりになるのだが、別の場面では全く反対の現象や言動にあって,見事にその理解が根

底から覆るというような経験をよくする。卑近な例で言うと,バスや汽車や食堂などで

我勝ちに人を押しのけて先を争う人たちが,待ち合わせをする時には,半日でも一日で

も悠長に相手の到着を待っているのはどういうことなのかしら!?と思う。交通手段を

利用して家に帰ることや食事をすることなど,人が生きるということに関しては せっ

ぱ詰まった行動を取るのだが,そうでない場合はなにも慌てることはないのである。

また,中国人の家に招かれて感心するのは,家の中が大変きれいだということである。

この感覚をなぜ家の外でも持つことができないのか? 一歩,外に踏み出せば,埃まみ

れのがらくたが山と積まれているし、食べ物のかすは人の家の庭だろうが道路だろうが

所かまわず捨て散らかして当前のような顔をして澄ましている。

 雷鋒に学べ!とか孔繁森に学べ!とか,新聞で一大キャンペーンを張って人々の公共

心を煽っているが,歴史的に積み重ねられた疲弊した心は一朝一夕に変えられるもので

はない。56の民族の集合体であり、12億の民を抱える国が,新聞のキャンペーンぐ

らいで一斉に右を向かせたり左を向かせたりすることは全く不可能である。また,そう

ならないところがよいのであって,もし,そのような国になったらそれこそ空恐ろしい

ことになるであろう!!

 日本人の中には,中国を好きな人と中国を嫌いな人が両極端に別れているが、いずれ

も,本当に中国を理解している人がどれだけいるのか,私を含めて甚だ疑問に思う。