アカシア便り80(五人兄弟の大連)                  '98-08-31

 2月の帰省時に計画を始めた『5人兄弟の大連・金州・旅順の旅』は、いろいろと

紆余曲折はあったものの、8月15日から24日まで無事終えることができた。

 V私が大連にいるうちに、是非、大連で『兄弟会』をしませんかVと呼びかけたのが

きっかけであったことと、今年は、父の50回忌であることから実現したものである。

 先ず、スケジュールは現役の三兄に合わせて盆休みの8月15日からと決まり、期間

は8月15日から22日まで、次兄だけ24日まで残ることで決まった。各々住んでい

るところが違うので、三兄夫婦は福岡から15日に到着し22日まで、後の3人は東京

から16日に到着し、次兄を除く2人は21日までということになった。全員が一緒に

なる期間が6日と短かいので、効率よくスケジュールを立てなければならない。

 大連を中心にそれぞれの思いがこもった金州と旅順で一泊する予定であったが、旅行

社の勧めで金州の宿泊をやめ、旅順に一泊することになった。

 我々兄弟5人は長兄から三兄までが大連で生まれ、四兄と末っ子の私が金州で生まれ

た。母は私が生まれて1年4か月で亡くなり、父も私が中学生の時に亡くなったので、

兄弟はそれぞれ違った環境で育った。

 長兄は金州で小学校に入り、3年生の時に東京に転校、6年生の時にまた金州に戻っ

てきて、大連三中から旅順高校に進んだ。次兄は東京で小学校に入り、4年生から金州

小学校に転校し、大連三中から旅順中学校に転校した。三兄は6年までずっと金州で

育ち、中学校は大連、最後は旅順医専で終戦を迎えた。四兄と私は金州で小学校に入り、

父の転勤に伴って大連から旅順へと転校した。このように5人がそれぞれ違う印象で

『大連・金州・旅順』を旅することになった。

 今回の旅を通じて初めて分かったことは、ものごころ付いた時に育った土地が、最も

愛着が強いということであった。長兄は大連、次兄と三兄は金州、四兄と私は旅順に

最も愛着を感じているということである。

 また、祖父は大連で亡くなり、母は金州で、祖母は旅順で亡くなっているので他の人

とは違う感情をそれぞれの土地に持っている。

 15日には三兄夫婦が到着したので、他の兄たちとは関係のない想い出の場所をまわっ

た。今回の旅のハイライトは、パック旅行などでは味あえない手作りのものであること

と、私が住んでいる地元であることを最大限に生かした内容にすることであった。従っ

て、やむを得ない場合以外はできるだけ、電車、バス、汽車を利用することにした。

 ホテルは兄たちが中学校へ通うのに汽車を利用していたので、大連駅前の『渤海明珠

大酒店』に決めた。ここには大連管理幹部学院での教え子が営業をしているのと、交通

に便利なことが決め手であった。先ず、三兄夫婦と手始めに行ったところは4年間通っ

た中学校である。駅前から朝日広場(現三八広場)まで電車で行き、後は歩いて鏡が池

(現児童公園)を通り、転山の麓にあった中学校までだらだら坂を30分ぐらい歩いた。

現在は海軍政治学院になっている学校の校庭には招待所や職員用のアパートが建ってい

た。兄は懐かしそうにぐんぐん中に入り、辺りを見回していた。ここは我々が1947

年に引き揚げる時に一時収容されていたところだということを初めて知った。弥生が池

(現植物園)もすぐ近くだとのこと、別に機会を作って行くことにした。


 大分歩いて少し疲れたので南山賓館で一服した後、タクシーをひろった。

そして、様変わりした大連神社(現大連外国語学院)を通り、昔のままの大連満鉄病院

(現鉄路医院)の中に入って大広場(中山広場)から西広場(友好広場)を回って昆明

街に出た。目的地は、戦後、ソ連軍に旅順を追われてからお世話になった父の友人の

林田邸である。現在は昆明街となっているが、中央公園(現労働公園)の近くに

あった。行ってみると同じ場所には大きなビルが建っていて、昔の面影はなにもない。

ここからまたぶらぶら歩いて、1人3元の入場料を払い、中央公園の中に入った。

忠霊塔のあとには大きなサッカーボールをかたどったものが置かれている。私は、現在、

五恵路になっている中央公園の林の中を通って、林田邸から伏見台にあった大連一中

(現大連理工大学成人学級)まで、1年強、毎日通ったものである。

 夕食は老舗の『群英楼』で餃子を食べることにしていたが、天津街のはずれにあった

店はつぶれていて真っ暗であった。港湾広場の新『群英楼』はあまりにも観光客ずれが

していて行く気になれない。近くの海鮮料理屋でも結構美味しいものが食べられた。

 16日午後は、成田から三人の兄が来て全員が揃ったので、日本から帰って弁護士を

している于水さんに車の手配を頼み、5人兄弟が共通の想い出の場所をたどることにし

た。先ず、大連三中のあった老虎灘に行った。ところが、北大橋から濱海路は夏季シー

ズンのため有料になっていて、予め登録された車でないと通れないことが分かり、展示

されている軍艦のところで車を下りて15分ぐらい歩き、5匹の虎の石像のところまで

行って写真を撮った。それから桃源街を回り、傅家荘海水浴場を簡単に覗いて、わが家

のあった若菜町と蔦町(現在の白雲新村の近く)に立ち寄った。ここが今回の旅のハイ

ライトでもある。若菜町の家はすでにとり壊されていて、大きな3棟のマンションになっ

ていた。道路を隔てた迎えの家は往時のまま残っていたので、両方とも記念写真に撮っ

た。蔦町の家はすでに何の面影も残してはいなかった。(後で調べたら、場所が少し違っ

ていたが、変わり方は同じであった。)

 つぎに、新しい大連が誇りにしている星海広場、ここには会展中心と呼ばれる大きな

展示場や体育館などがあり、旧正月の春節には盛大な花火大会が催されて立錐の余地も

ないほどの人出で賑わう。最後は星が浦(現星海公園)に行った。子供のころの広々と

したイメージはなくなっていて、海水浴場としてはもう一つ魅力に乏しい印象であった。

それでも、父と一緒に釣りに行った面影を追って記念写真を2〜3枚撮った。

 于水さんの用意してくれた車は通勤車として使われるため、17:00までに会社に

戻らなければならないのでここでわかれ、我々はタクシーでホテルにもどった。

ホテルで一服した後、于水さんの案内で友誼商場のそばの『ふか鰭スープの店』へ行き、

生うにや踊りえび、あわび入のふか鰭スープ等大連の海鮮料理を食べた。その後、大和

ホテル(現大連賓館)でカラオケを歌って『5人の兄弟会』の初日は終わった。

 17日は、金州まで汽車で往復する予定である。大連駅での切符の購入は雑踏のため

一苦労であるが、そこは豊富な経験を生かして難なく6枚の切符を手に入れた。

予め約束をしていた劉永礼さんが、時間通りに金州駅の改札口で出迎えてくれたので、

あとはスムーズに想い出の場所を回ることができた。劉さんは金州小学校での我々の

先輩に当たる人で、大連外国語学院・金州分院では私の同僚として日本語を教えて

いたので、何ごとも気軽に頼めたのは有り難かった。

 駅から奥町の我が家までは歩くことにした。大連三中まで汽車通学をしていた長兄が
案内役である。子供の時には遠く感じていた駅から我が家や、我が家から民政署まで
100mもないぐらい近いので拍子抜けした。民政署は一時病院として使われていたが、
現在は、餐廳(レストラン)に改造中であった。 そこから乃木橋を通って、現在は
体育場になっている昔のかわらのかまのあったところを歩いた。

 いよいよ懐かしの小学校である。南山会の総会を開いた7年前には立派に残っていた

校庭は、今ではアパートが建っていて見る影もない。校舎は割りばし工場から部品工場

に変わろうとしていて、まるで空き家のようになっている。それでも親切な20才に

なる可愛い女性が愛想よく迎えてくれた。彼女は『今日は責任者がいなくて十分にもて

なしができない』ことをしきりに詫びていた。そして、駅から歩きづめで校舎を見回っ

て疲れた我々に『休んでいくように』と言って椅子を勧めてくれた。

 劉さんの家は、校門を出てすぐの2棟目のアパートの2階にある。ちょっと立ち寄っ

て行くよう勧められたので、桃とすももを丸かじりのまま食べて一服した。

 ここから劉さんの用意してくれた車に乗った。この車は横腹に『検察』と書いた公用

車で、昼食をとることになっているレストランの主人の友人が運転しているものである。

 一服して元気の出た我々は、内外綿の方から乃木勝典中尉の最期の地と言われる八里

を回って大和尚山(現大黒山)の麓にある名刹朝陽寺の広い庭内を散策した。それから

道教のお寺の由緒ある響水観にお参りし、さらに、竜王廟とその近くの海水浴場に立ち

寄った。兄たちの話では、『内外綿の子』と言えば昔はエリート集団で、小学校では
一目置かれていたらしい。響水観では、小学校高学年でキャンプをしたとのこと、
竜王廟の海水浴場はコンクリートの堤防になっていて、今でも泳いでいる人はいたが、
昔の面影は全くなくなっているとのことである。

 昼食は、最初金州賓館でとることにしていたが、劉さんの特別な計らいで、安くて

美味しい店を用意してくれていた。このレストランでは、食事が始まる前にぶどうと

すいかが出された。これは本格的な食事のマナーを心得た店であることが窺われた。
パリのレストランでは前菜はカンタロープメロン(果肉が黄色いメロン)で、これだけ
を30分かけてたべる。ダイヤモンド式減量法で知られるアメリカのハーベイ・ダイヤ
モンドは『新鮮で完熟した果物は消化酵素を含んでいて、20〜30分ですみやかに
消化吸収される。』と言っている。
このような食事の順序が金州の片田舎で供されようとは思いもしなかった。

 さらに、この店でよかったことは2人の純真な少女のウェートレスである。2時間

以上もかけてビールと紹興酒でごちそうを食べた後は、トイレへ行きたくなる。彼女ら

は、トイレへの階段の上り下りに一人ずつ、やさしく腕をとって介添えをしてくれるの

である。このようなサービスは今まで経験したことがなかったので、みんな大感激の

面持ちであった。最後に彼女らを交えて記念写真を撮った。

 食事の後、昔の金州城の南門に位置する『向応広場』(ここは今でも金州の中心地な

のだが)まで行き、『鉄牛』に対面するため金州博物館に立ち寄った。博物館の中には

有史以来の金州の移り変わりが発掘品とともに展示されていて、一見の価値がある。

 その後、母が亡くなった金州病院の前をゆっくり走ってもらって南山に行った。

 普通の車では登れない南山を『検察』の車はあえぎながら登り、頂上に立った。
100年近く前、この平和でのどかな南山で、日本とロシアが戦って多くの戦死者を
出したと言う。地元の中国人はさぞ迷惑であったろうと往時が偲ばれてならなかった。
それにしても、現在の南山は何の変哲もない平凡な低い山に過ぎなかった。

 山を下りると17:00近くになっていたので、民政署の前で劉永礼さんと『検察』

の車に別れを告げ、奥町の自宅から通学路をたどってゆっくりと駅まで歩いた。

 朝8:40に金州駅に到着してから丸1日、予定通りの金州の散策が思う存分にでき

て、我々兄弟は大満足であった。往きの汽車は6人がまとまって座れたのでよかったが、

帰りはみんなバラバラになった。それでも、次兄、三兄は隣合せた中国人と何やら話が

はずみ、大変な盛り上がりようであった。やはり、大陸育ちなのであろう!!

 朝7:30にホテルを出た金州への旅は、18:30にホテルに戻って無事終わった。

往復とも汽車に乗り、一日中歩き回った興奮が覚めやらず、昼食のごちそうがまだ
おなかに残っている感じで、みんな夕食に出ようという元気がない。そこで、駅前で
包子と缶ビールを買ってきて兄たちの部屋に配った。
これで今日の夕食は終わりである。

 18日は開発区の日本企業訪問である。本来なら、午前中に大和尚山に登って午後か

ら開発区へ行く計画であったが、長兄の希望で一日を開発区訪問に切り換えた。どうせ

日本企業を訪問するからには業種に変化を付けて、訪問目的は『開発区の現状と将来の

展望について』というタイトルでお願いすることにした。

 午前中はマブチモーターと工業団地、午後は神奈川経済貿易事務所と三島食品の4社

に絞った。7月中旬に、4社の総経理(社長)に電話で訪問依頼の申込みをし、同意を

得た上で、駄目押しのFaxを送ってスケジュールを確定した。

 マブチモーターは1987年に独資企業として進出し、現在では瓦房店の子会社を

合わせて1万人を越える規模になっている。開発区の中でも最大規模の製造業である。

 工業団地は大連市と日本の海外経済協力基金の合弁企業であり、1992年に創業し

1994年から分譲を開始した不動産業である。2020年にはこの開発区は211

Km2の敷地面積を擁し、100万人の人口を目指しているとのことである。

 神奈川経済貿易事務所は1990年に神奈川県産業貿易振興協会が設立したもので、

県経済界からのビジネス活動拠点として事務所の提供、各種調査、情報の収集・提供、

引き合いの斡旋などの活動支援をしている。遼寧省と神奈川県は友好関係にある。

 三島食品は広島の食品加工業者でスーパーや生協などでは『ふりかけ』を販売してい

るのでよく知られている。開発区では1992年に創業を開始した独資企業である。

 企業訪問を終えて炮台山公園へ行き、30分ほど散策しながら展望台に登った。

展望台からは開発区が一望のもとに眺められ、大和尚山の裏側がすぐ近くに見える。

 この日8:30から17:30まで貸し切ったマイクロバスは管理幹部学院の教え子

が世話をしてくれた。定刻通りにホテルに戻ってシャワーを浴び一服したところで

19:00にロビー集合、夕食のために外出した。今日の夕食は、普通の旅行客では

まず行くことのない私の隠し玉、『狗不狸包子の店』である。天津包子の本場ものを

狗不狸包子と呼んでいるが、安くて美味しいので地元の人には評判のよい店である。

ただ、店が狭い路地裏にあるので格式ばった人を案内する訳にはいかない。


 19日はいよいよ未開放地区の旅順である。ここは我々兄弟が子供のころ揃って
暮らした最後の場所であり、祖母の亡くなった想い出の場所でもある。

 私は旅順児童教育後援会のお蔭で毎年訪問していて珍しくはないが、兄たちにとって

は戦後53年ぶりの訪問になる。ということで、是非この旅順で一泊したいと思った。

4月に川畑文憲氏と一緒に一泊した時『兄弟会』のことを話し、軽い気持でお願いした。

彼は後援会・会長であり、旅順の栄誉市民でもある。後援会が旅順九三小学の生徒を

毎年6〜8名ホームステイのために日本に招待していたり、物心両面の援助をしている

ことから、旅順口区政府には絶大なる信用のある人である。

 7月初旬に、4月にそれとなくお願いしていた『兄弟の旅順宿泊』の件を言わず語ら

ず進めて下さっていて、旅順口区政府と直接交渉に当たっていただいた金寿奉教授

(遼寧師範大学)から、次のような政府からの伝言が寄せられた。

 『川畑会長は栄誉市民でいらっしゃる。牛島氏のご兄弟もまた後援会の会員でおられ

る。区政府としては当然便宜を計ってあげるべきである。しかし、こういうことは公に

正式な書状で請求すると反ってことが難しくなる。旅順が未開放地区のため、他の部局

との調整が必要となる。そのために、川畑先生の友人、後援会会員ということで、政府

の来賓として宿泊の便宜を計りたい。』ということであった。

 事前に金教授から政府からの申し出で、通訳を1名付けるとの連絡を受けていたので、

定刻にホテルを出た車は、先ず政府の玄関に横付けした。外事弁公室に王恒傑主任を

訪ねてあいさつもしたい。貴賓室では、美人の呂淑琴副主任も同席していてにこやかに

迎えてくれる。予め提出していたスケジュール表のほかに、特に行きたいところはない

かとの王主任の有り難い申し出があり、日俄監獄と黄金台を加えてもらった。さて、

いよいよ出発であるが、通訳のほかに王主任の秘書が同行してくれて大連に戻るまで

万全の体制で我々を見守ってくれていたのには大感謝、大感激であった。

 最初の訪問先は、九三小学の『日語夏季特別教室』の参観である。大連駐在のご夫人

方の集まりである『アカシア会』の協力で、2人の方にボランティア教師をしていただ

いた講座である。この日は10日間の講座の最後の日に当たる参観であった。小学生と

中学生の2クラスがあり、それぞれ15名という理想的な環境での特訓講座である。

小学生のクラスでは先生のとっさのアドリブで全員が立派な日本語で我々のために自己

紹介をしてくれた。われわれに中国語でこれだけの自己紹介をしてくれと言われても、

そう簡単にできるものではない。

 白玉山の麓にある高台の小学校からは表忠塔がすぐそばに見える。校庭で記念写真を

2〜3枚とってもらい、別れを惜しんだ。

 つぎは、旅順経済開発区訪問である。二0三高地の北、渤海側の羊頭窪に敷地面積が

58.8Km2ほどの開発区が広がっている。特色は海運と海産物の養殖・加工基地で

あり、観光や工業方面にも力を入れているので将来性が見込まれているとのことである。

すでに、日本企業の進出もあるらしいが、時間の都合で訪問はできなかった。

 昼食には麺類が食べたいというみんなの希望で、『通力大酒店』に立ち寄り、簡単に

食事を済ませて二0三高地へと急いだ。開発区とここはすでに開放されている地域なの

で、誰でも自由に出入りができる。

 二0三高地は日露戦争では最も激しい攻防戦が繰り広げられたところである。

 日本軍の死傷者1万人強、ロシア軍の死傷者6千人と、双方とも死傷甚大であった。
乃木希典の次男保典少尉もここで命を落とした。戦争が終わった後、乃木希典は二0三
高地を『爾霊山』と改名し、自筆で書いた砲弾型の碑が今でも立っている。 幸い、
この日は天気がよかったので旅順口が一望のもとに見渡せる。頂上で記念写真をとった
後、裏側から下山し、保典少尉終焉の地に建てられている碑にお参りした。

 つぎは、次兄と私が通った旅順中学校である。現在は海軍の施設になっているので

中に入ることはできない。帝政ロシア時代はドイツ人商会のビルであった由緒ある建物

だが、1909年に旅順第一中学校と改名され、今も健在である。

 旅順第1日目の最後は『日俄監獄』訪問である。帝政ロシアが1902年に造り始め

1907年に日本が拡張したものである。牢屋が253室あり、2千余人が収容できた。

服役工場が15棟、絞首刑の密室が1つある。陳列品の中には旅順口閉塞船の錨や乃木

希典の『金州城外斜陽に立つ』の石碑の片割れなどがある。なかには愛国烈士として
獄中で死んでいった人たちの言動が克明に記録され、生き残りの人たちの証言も数多く
展示されている。哈爾浜駅頭での伊藤博文の暗殺者、安重根は朝鮮の英雄としてここで
獄死した。ここでの展示品は『愛国主義教育基地』として学生たち必須の参観地に指定
されている。

 我々にとっては、しんどい思いで参観した『日俄監獄』であったが、一服する間もなく、
旅順口区政府の招待宴が開かれる『維也納大酒店』へ直行した。ここは、文房具屋の
『文栄堂』(山県さんの店)の近くである。 川畑会長はあいにく大連で所用があって

ご一緒できなかったが、17:30から19:30まで盛り沢山の料理をいただいた。

 旅順の2日目は、8:00に車が迎えに来て、朝早い黄金台海水浴場へと急いだ。
シーズンのため、込み合う前にという作戦で、すがすがしい想い出の海水浴場に立った。
昔は、海軍の施設を見ながらうっそうと茂った林の中を歩いて通ったものだが、今では、
りんご畑があったところに広い舗装道路が通じていて、あっという間に着いてしまう。
味気ないものである。プールも灯台も昔のままに、同じ場所にあったので、たちまち、
53年前にタイムスリップしてしまい5人兄弟の話は尽きない。角度を変えた写真を
数枚撮ってもらい、ごつい玉砂利の上を散策しながらゆっくりできた。

 つぎは、旧居のあった高千穂町である。数年前には煉瓦の平屋があった我が家跡には

現在、7階建てのアパートが建設中であった。中学校への登下校時の集合場所であった

民政署の斜めの石塀にも商店が建てられていて様変わりしていた。幻滅を感じながらも

車を降りて建設中のアパートの横を覗いてみたが、写真を撮る気にはなれなかった。

 この後、東鶏冠山から水師営をまわり、時間を見ながら夏家河子海水浴場に立ち寄っ

た。昔のきめ細かい砂地の海岸はどこに行ったのだろう。きれいな海岸がコンクリート

の堤防に変わり、堤防の上に2〜3人入りの小さなテントが密集しているさまは、まさ

に養鶏場のとり小屋を思わせる。

 昼食は、ホテルに戻った後、運転手と政府の秘書氏とともに大連駅前の牛肉ラーメン

屋で軽く済ませた。

 14:30には大連港から三山島までのクルージングである。写真家の呂同挙氏の

友人が特別に船を出してくれるという。それも、大連港務局の公用船である。

 我々の貸し切りで、時間に制限はないと聞いていたが、すでに、先客が乗っていた。
どうも、船員の家族や友人が便乗しているらしい。ゆったりとした船室には冷えた
すいかとミネラルウォーターが置かれ、我々を歓迎してくれる。

 港務局・外事弁公室の高連濱主任が一緒に乗っていて何かと世話を焼いてくれる。

管理幹部学院の日本語教師の同僚であった崔助教授が通訳として同乗してくれたのも

よかった。1時間ほどすると島影に着いて、釣りが始まった。小さな黄魚(フォアンユイ)
があちこちで釣れだし大騒ぎしている。兄弟の中では、次兄が3匹ほど釣ったがあとは
さっぱりである。船員の中にはめばるを3匹釣っている人もいた。海上で1時間ほど

遊び、程よいころを見計らって、高主任の指示で大連港に戻ってきた。

 ホテルで軽くシャワーを浴びて19:30にロビー集合。明日、東京へ帰る2人の兄

は最後の夜なので、大和ホテルで豪華なお別れパーティをしようという段取りである。

おみやげにもらった鈞果の2匹のめばるもスープにしてもらって食膳を飾った。食後の

デザートには冷たい『銀耳のシロップ煮』と『さつまいもの飴煮』で締めくくった。

5人揃った最後の夜だということもあり、食事の後はカラオケで自慢の喉を競い合って、

ホテルに帰ったのは23:00を過ぎていた。

 21日は、休養とおみやげを買う日として最初から予定していた。ところが、3人の

兄たちが生まれた家が南山麓に現存しているらしく、長兄は是非それを確かめたいと

言いだした。朝食後すぐに、駅前の電車に乗って朝日広場まで行き、鏡が池を通って

15分ぐらい歩いて、ついに楓町にあった我が家を見つけだした。私にとっては住んだ

こともない家なので特別な感慨はないが、みんなで記念写真を撮って旅の締めくくり

とした。南山賓館がすぐ近いので、ここでコーヒーブレイクをとり一服した。

 あとは、みやげものを何にするかということに焦点を絞った。そこで、近くのバス停
まで歩きながら南山麓小学校を覗いたりして、708番のバスに乗った。このバスは

私の住んでいるマンションの前に停まるのでよく利用しているのだが、大連病院の前か

ら大広場を通り、常盤橋まで乗った。最初は幾久屋で買物をする予定であったが、

ここまで来たら大連商場の方が近い。それに、ホテルにも近く便利である。みやげもの

としてそれぞれ買ったものは、月餅、ペンダント、七宝焼の小物入れなどであった。

 ホテルに戻ったのは11:30ごろになっていたので、急いで清算を済ませチェック

アウトをした。その後、朝食以外は初めての昼食をホテルの食堂でとった。

 麺と餃子とビールの軽い食事を思い思いにとり、想い出の『5人兄弟の旅』は何の
トラブルもなく、無事終えることができた。

 2人を空港に送った後のこの日の夕食は、次兄と三兄夫婦と私の4人である。兄たち

は肥牛(霜降牛肉)のシャブシャブが食べたいというので、友誼商場での買物を済ませ

たあと、以前、呂同挙氏と一緒に行った店に案内した。内容と味覚は好評であった。

 24日までは次兄が私のマンションに泊り、毎朝、朝早くから散歩がてらにあちこち

と歩き回っていた。兄は、古い地図と新しい地図を見ながら、蔦町の正確な位置を私に

教えてくれた。また、弥生が池まで往復ともバスに乗って行ったのも大きな収穫であっ

た。全員の協力で、実り多い『兄弟会』が無事終えたことに感謝している。そして、

当地で果てた祖父母、母の霊の安からんことを祈って、この旅行記を締めくくりたい。