アカシア便り−112(技術移転ー同窓生の大連)   2000年 6月 4日  

技術移転;
 大連での生活が6年を経過した。最初の3年は日本語教師として、後の3年はシステム
開発の品質管理担当顧問として勤め上げたのだが、このまま、延長して同じ会社で仕事を
していくことに疑問を感じはじめた。わたしの持っているスキルや経験を少しでも役立て
たい、という素朴な気持でこの6年をやってきた。そして、自己評価をしてみると、甘く
みて70点ぐらいであろうか!ある程度の成果はあったのだが、何かもう一つ物足りない。
次のステップに進むにはどうすればよいか、少し考えてみたい。
 これからやりたいことがあるとすれば、今までの経験を生かしてコンサルティングが
できるように、大連で新しく会社を設立し、自活の道を歩むことである。これは1年の
準備期間をおいて、来年4月に稼働を始め、3年ぐらいのめどで軌道に乗せればよいと
思う。軌道に乗せた後は、後継者にこの会社を譲って引退する。これができれば理想的
ではあるが、現実はなかなかそう甘くはない。
 会社の主取引先の部長から、冗談とも本音ともなく『定年まで後5年あるので、それ
までは牛島さんがこの会社で頑張っていてほしい』と言われたことがある。彼は、わた
しのあとがまで、この会社に勤めたいと言うことであった。別に、会社の責任者からも、
日本の取引先で定年になる人がおり、天下り先をこの会社に求められている、という話
も聞いている。
 このように後継者がめじろ押しという状態は、歓迎すべきことである。わたしはその
先駆者として、彼らに受皿を作ってあげられたら、多分、思い残すことはないと思う。
 今、定年を迎えようとしている人たちは、日本の高度成長時代を一身に支えてきた
豊かな経験を持っている。その豊かな経験を生かして、発展途上国への技術移転に
貢献できれば、すばらしいことではなかろうか!
 最近では、IT−情報通信技術が製造を変える、ITが生活を変える、ITは産業
革命に匹敵する変化をもたらせた、というような記事が連日新聞に載っている。
 わたしは、現役のころ、10年前になるが、社内のPROFSというシステムを
使って、アメリカの担当者とe−mailでやりとりをしていたことを思い出す。
アメリカとの時差が13時間あるので、夕刻、退社する時にメールを出しておくと、
翌朝、出社した時には、もうその返事が届いている、逆に、先方からの問い合わせに
対しても、1日かけて調べて返事を出しておけば彼らは翌朝それを見ればよいので、
落ち着いて仕事ができた。当時、大変重宝したものだ。これがわずか10年が経った
今では、小学生でも日常茶飯事にe−mailとして使われるようになっている。
 中国の技術革新や技能習得にかける意気込みは、国家の命運をかけて中央から号令
がかかるので、日本が12〜13年かけて習得した技術や技能は1〜2年でものに
してしまう。
 こちらの新聞に、日本で中国人のインターネット技術者を募集している記事が
載っていた。月給は、27万円から40万円とあり、欧米への飛躍も可能だという
内容であった。今、中国では、外国に行って先進的な環境のもとで仕事をしたい人が
多くブームになっている。 わたしが日本語教師で勤めていた大学でも、留学生や
技術者の渡航斡旋を宣伝して、学生募集をしていたので驚いたことがある。
 このような背景の中国で、定年退職者が持っている豊かな経験を生かして技術移転
の活躍の場があれば、大変結構なことだと思う。

同窓生の大連;
 大学の同級生6人が大連にやってきた。全員初めての中国旅行である。何しろ初めて
のことであり、日程その他も、すべて自前で計画を立ててきたので、現地にいるわたし
から見ると、歯がゆいような日程になっていた。
 幹事からは、到着5日前にFAXが届き、到着日と便名だけを書いて、『よろしく
ご配慮ください』というものであった。早速、大連の旅行社の名前を聞き出して、内容
を調べたところ、ありきたりなスケジュールになっていた。
 わたしが大連にいるからというので、大学時代の同級生が6人来てくれるのである。
行程は、大連、瀋陽、北京となっている。わたしは、少なくとも、大連に滞在している
間は、できるだけ一緒に行動してあげたいと思っているのに、事前相談が何もなく、
LOOK−JTBのパック旅行で来ているので、安上がりだと喜んでいたが、現地旅行社
は空港への送り迎えと観光スポットへの車だけを準備していた程度で、観光スポットの
入場券は一切はいっていない。
 第1日目は、昼過ぎに空港に出迎えてホテルにチェックインした後、大連港と老虎灘
公園に行っただけである。夕食の6時までには、たっぷり時間があるので、景色のよい
濱海路を通って、傅家荘の方へ回ってほしいと頼んだが、この旅行社のガイドは、会社
からの指示で、そのようなコースは入っていないと言って聞いてもらえなかった。
そして、大連の観光地は見るものがあまりないので、わたしが指示したコースへ、
今日行ってしまったら、明日は行くところがなくなってしまうと言うのである。大連の
ことを何も知らない人たちに、現地旅行社のガイドがこんなことをいうのはどうかと
思ったが、わたしは言葉を飲み込んだ。 わたしは、濱海路の『燕窩嶺』や等身大の
人物の彫刻が沢山置いてある、広々とした大連港に面した『東海公園』などを案内
してあげたかった。
 ホテルに4時ごろ戻ったので、ホテルの目の前にある大連駅と勝利広場を案内して
あげた。上野駅を模倣して作ったという大連駅は、すでに、70年近い年月を経ている。
混雑する切符売り場と薄暗い待合室を見るだけで、中国の現状の一端に触れることが
できるが、これも3年後には、新しい近代的な駅ビルに変身する予定である。
 ホテルでは、このグループは喫煙者と非喫煙者が同室になっていた。一人の友人は、
心筋梗塞で入院したことのある人で、胸にステンレスの治療器具を埋め込んでいて、
喫煙者と同室のために苦しんでいた。わたしは、見るに見かねて幹事に『部屋割りを
変えてあげてほしい』と提案したが、最後まで変えてもらえなかったそうである。
 いろいろと問題の多いグループではあったが、夕食は、わたしを交えた7名が
1卓を囲んで、和気あいあいと話がはずみ、懐旧談に花を咲かせることができた。
 2日目の午前は、わたしが、京劇鑑賞のための手配をしているうちに、一行6名は、
星海公園から自然博物館、それに、テレビ塔へ行ったそうである。  自然博物館は
見どころなので、大変よかったと思う。
 午後は自由時間とのことなので、わたしは、旅順観光へと案内してあげた。行きは、
景色のよい南路を通り、旧市街と新市街を通って日露戦争の激戦地であった203高地
に行った。203高地では、天気がよかったので、老虎尾半島と旅順港口を間近に見る
ことができた。帰りは、北路の途中にある水師営会見所を参観した。  ここは、
乃木大将とステッセル将軍が、日露戦争終結の調印式を行った記念すべきところである。
 大連に戻り、6時半の京劇鑑賞まで少し時間があるので、唐山街にある自由市場に
行き、買物を楽しんだ。 この日の京劇は、『槐花公主』という題目であった。全員、
初めての京劇鑑賞であったが、字幕を見ながらの鑑賞だったので、全員ぐったりと疲れ
てしまったようで、残念ながらあまり好評ではなかった。 私が初めて京劇を観た時は、
舞台上のきびきびとした動作と見事に統制のとれた動きに見とれて、これが、普段
見慣れている中国人と同じ人間なのか、と感動したものである。
 今回の同窓会のハイライトともいえる、旅順港への旅と京劇鑑賞を済ませて、最後の
晩餐会は‘群英楼’の餃子であった。つい1ヶ月ほど前に放映されたTBSテレビの
‘うるるんものがたり−大連’群英楼‘での赤井英和の餃子作り修行’の舞台である。
嘉瀬さんから送られてきたビデオを見たばかりだったので、とても興味があった。
‘群英楼’では個室に案内された。ここでサービスにつとめてくれたのが大連外国語大学
4年の張雪蓮という女性で、営口出身であること、7月に卒業した後、岡山大学に留学
することがすでに決まっていることなど話をしているうちに、われわれのグループと
すっかりうち解け合い楽しい会話が弾んだ。  気のいいおっさんばかりのグループ
なので、みんなはたちまち掛け軸やお茶など、決して安くはない買い物をしてあげて、
彼女を励ましていた。
 一行は、明日、早朝の特急列車で瀋陽へ行くことになっている。わたしは、仕事の
関係で同行できず、一路平安を祈って、別れを告げた。

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