生活の四季

Four Seasons in the Places Where I Lived - 我生活的地方的四季

By  Yoshi Mikami / 三上吉彦

『飯綱山の初雪』(2012.11.21.)から

 

内容

アメリカ.. 2

米国・ホワイトプレインズ生活の四季... 2

米国ハワイ生活の一年... 3

 

アジア.. 3

台湾・台北生活の四季... 3

中国・大連生活の四季... 4

日本・信州の村生活の四季... 6

日本・信州の都会生活の四季(未完). 8

日本・藤沢生活の四季... 8

 

 

アメリカ

 

米国・ホワイトプレインズ生活の四季

 

米国ニューヨーク州ホワイト・プレインズでの生活(1980年代前半)の四季を、思い出しながら書いてみよう。新年の一月一日は一日だけが休みで、前夜は24時にマンハッタンのタイムズスクエアで新年のカウントダウンがテレビで放送されて、恒例のウォルドーフアストリア・ホテルでのガイ・ロンバードとロイヤル・カナディアンズ・バンドの「Auld Lang Syne」演奏はもう実演はなかったが、録音で流されて、みな夜更かしするので、大体寝正月。ここの緯度は日本の函館、中国の瀋陽ほどなので、一月・二月は結構寒く、雪もしばしばあって、住んでいたアーモンクArmonk)の家からホワイト・プレインズの会社までは車で20分足らずだが、家には車庫が1台分しかなかったので、外に置いた車の朝の雪かきなど苦労した。

二月初めにはリンカーン、ワシントン、キング牧師の誕生日があり、ニューヨーク州では子供たちの学校が休みになり、銀行関係も休みだったが、普通の会社は仕事をやっていた。冬は以前キングストンにいたときのように湖へアイス・スケートに行ったり、スキー場へ行った覚えはなくて、雪に閉じ込められて、階下の子供の遊び場でモノポリーをやったり、私はしばしば会社から許可を得てパソコンを借り出して、いろいろと使ってみるなどしていた。三月のまだ寒いころ、カトリックの聖パトリック(St. Patrick)のお祭りで、アイルランドからの移民がニューヨーク市やボストンなどで、「緑色を着て」(Wearing the green)の大パレードをやるのをテレビで見る。

北国だったので、は待ち遠しかった。春にどこか花が咲く有名なところがあったのは、よく覚えていないし、鳥も春に特有な鳥は覚えていない。(一つだけ面白いと思ったのは、以前ノース・カロライナ州ローリーに住んでいた頃は春先にドッグウッドの花がきれいだったが、この花については丁度日本の桜前線のように、ドッグウッド前線がニューヨークタイムズに発表されて、アパラチア山脈をジョージア州からニューヨーク州を通ってニューハンプシャー州まで駆け上がるのが発表されていた。)五月末にメモリアル・デイMemorial Day、戦没者記念日でもともとは南北戦争終結記念日)があり小中高校は休みで、もともと大陸性気候なのでこの日当たりから突然夏のような日差しになり、夏休みも近い。七月四日は独立祭で、この日に花火を挙げるのが慣わしで、周りの街で挙げるのが遠くに見える。アーモンクの中心街では、この日に小規模のパレードがあり、子供たちは学校で参加する。

Mayflower_II_at_Plymouth

ボストン郊外のメイフラワー号

夏のウィークエンドには、よくオートキャンプ場へ自分の一家で、あるいは友人、大学院時代の同級生ジム&エイコ・チェン(Jim & Eiko Cheng)およびIBM East FishkillでICチップのデザインをしていた小椋せいき&いちえ(Seiki & Ichie Ogura)の一家と一緒にいって、楽しんだ。住んでいたアーモンクのウィンドミル・ファームズという住宅地にはクラブハウスがあり、年間1000ドル出すと子供たちがそこの湖で泳いだり、クラブハウスで食事ができたので、一年目はやらなかったが、二年目からはそこに入って、子供たちを遊ばせた。七月・八月の夏休みには二週間ほど休暇を取り、日本へ帰り、途中で米国のどこかへ寄るか、マサチューセッツ州ボストンやケープコッド、ニューハンプシャー州やバーモント州へいったりした。(バーモント州やニューハンプシャー州へいったのは、秋だったかも知れない。)

九月最初の月曜日がレーバー・デイ(Labor Day)で、この日の直前から「Back to school」の大安売りがあり、この日で「夏」が終り、学校の新学年が始まる。十月には、ハドソン川をもう少し北へいったあたりでリンゴの摘み取りができ、よく行って、そこにはリンゴジュースなども飲めた。ホワイト・プレインズあたりは秋の紅葉が一番美しく、十月はもうどこの道をドライブしていても、きれいな紅葉を見ることができる。十月三十日は万聖節(All Saints Day)で、その前にカボチャで灯篭を作ったりして、特別な食べ物はないが、夕方近所の子が仮装をして「Trick or treat!」といってお菓子をもらいに来るので、キャンディーなどを用意しておかないといけない。

十一月には、十一日は退役軍人の日(Veterans Day、第一次大戦が終った日)があり、小中高校は休み。第四木曜日はサンクスギビング・デイThanksgiving Day、感謝祭)で、現在は宗教に関係なく米国人全体でお祝いするので、米国最大のお祭りで、普通の学生はこのウィークエンドに家へ帰り、またひと月後のクリスマスに家へ帰るので、忙しい。サンクスギビングにはマンハッタンの五番街ではメーシー百貨店主催の大パレードがある。七面鳥を食べるのが慣わしで、自分で七面鳥を買って、つめものをして、オブンで焼き、クランベリー・ソースと一緒に出した。エッグノッグという飲み物も出すが、これは作り方がわからないので、もう出来合いのをスーパーで買った。テレビではサンクスギビングかクリスマスの前に有名なスターが主催する番組があり、そのころ絶頂期だったジョン・デンバーの番組はすばらしかった。(これはクリスマス・ショーだったかも知れない。)車にスノータイヤを装着しなければと思っているころ初雪があり、十二月初旬には、もうクリスマス商戦だ。クリスマスになる少し前に、ユダヤ教徒のハヌカという子供向けのお祭りがあり、子供たちは学校でクリスマスの歌より、ハヌカの歌を沢山覚えてくるくらい、まわりはユダヤ人にあふれていた。以上、短かい四季の説明だが、これくらいしか覚えていない。

 

米国ハワイ生活の一年

 

ハワイ州は米国でも最南部にあり、熱帯地方にあるので四季ははっきりしないが、毎年行事がありそれを頼りに生活をしている。ここの一年は8月末から始めよう。5月末から始まった夏休みが820日ころ終り、Back to schoolのセールスがあり、学校が始まり、私は娘の家族の家に寄宿しているので、子供たちの面倒をみる機会も少なくなる。9月最初の月曜日は全米で祝祭日でハワイ以外ではこの日に学校が始まる。10月にはコナ(Kailua Kona)の町でトライアスロン世界チャンピオンシップがあり、この前から道路にはマラソンや自転車で走る人があふれて、大勢の土地っ子もボランティアで働く。(残念ながらこのトライアスロンの時期私はハワイ島にいたことはない。)

11月初旬にはコナ・コヒー・フェスティヴァルが一週間ある。コーヒー農園・博物館が公開されたり、街中で小規模なパレードがあり、ブラスバンドの音楽会もあり、様々な講座も開かれる。11月末は感謝祭で、その翌日がBlack Fridayと呼ばれるクリスマスセールの開始日で、このころからクリスマス向けの音楽会も始まり、私はコナ合唱協会に所属し始めたので、その有料・無料のコンサートで歌った。音楽は英国・米国起源のクリスマスの歌だけでなく、ユダヤ教の「ハヌカ」祭の歌、フィリピンのクリスマスの歌、日本の「知床旅情」、フィンランド語の歌も歌い、「きよしこの夜」は6か国語で歌った。クリスマス前の土曜日には、この町最大のクリスマス・パレードが行われて、私も子供たちがポンポンガールで参加したので、後に続いて参加した。クリスマス・イヴは教会に行く人がまだ多いと思う。私の教会ではマーシャル群島の人たちの子供用のパーティーを行なった。クリスマスの日に午前中に礼拝があり、これに出る人も多い。

クリスマス後はハワイでも冬に入り、涼しくなる。大晦日は近所の家へほぼ徹夜のパーティーに招かれた。正月は1日だけが祝祭日で、2日には仕事が始まる。この日ころは大学フットボール大会の最終試合が盛んな日で、私は友人の家でカリフォルニア州のスタンフォード大学で行われる「ローズ・ボウル」をテレビで観戦。クリスマスからのこの時期は休暇を取る人も多少いるので、仕事は1月中旬からまじめに始まる感じだ。(続く)

 

 

アジア

 

台湾・台北生活の四季

 

といっても実は、台湾は沖縄の南西端、与那国島の隣り、中国の福建省の隣りなので、亜熱帯で、短い春、長い夏、秋か冬か分からないようなどんよりと曇った季節があるだけで、台湾生活の三季といった方がいいかも知れない。新年は一月末か二月の旧正月から始まる。前日の夜、夜中の十二時を待ちきれないように、爆竹と花火が上がり、それが明け方まで続くので、窓の外が明るくて、眠れない。元日は一日休みで、土地の人たちは親類同士、会社の知り合い同志新年の挨拶をするのかも知れないが、我々は台北アメリカン・クラブの会員権を会社がくれたので、そこへいってテニスをするくらいが関の山だった。

二月にはもう桜が咲き始め、日本のような大きな木に下向きの白い桜の花ではなく、小さな木にほぼ赤い花のヒガンザクラが咲き、私たちが住んでいた台北市北郊外の天母(ティエンムー)からさらに北の裏山、北投温泉あたりの散歩ができるようになる。桜前線はここから始まり、沖縄を通って日本列島を上がり、四月には関東地方へ達する。三月にはさらに北へいった七星山などのハイキングコースへ行くには絶好の季節になる。

四月初めに清明節があり、これはお墓参りの日。このころになると台北はもう夏で、あさ家から出て五分くらい歩いて、中山北路の出発点のバス停へ向かう間も、汗をかく。梅雨はもう四月から始まり、七月ころまで続き、さらにしばらくすると台風も台湾を襲う。台湾の台風は、それは、それは恐ろしく、高圧線の鉄塔もなぎ倒し、そうすると全市が停電になり、また町に水が出て、帰りのタクシーも捕まりにくくなる。

六月に端午節があり、この日の前の土曜日に、ショウブの根を取りに、郊外の川原へ連れていってくれた。自然のショウブを見つけて、花を観賞したのか、日本のようにいい香りの根を風呂桶に入れたかは、よく覚えていない。端午節には龍舟比賽と呼ばれる、ドラゴンボート・レースがあり、これは高雄のレースが有名で、テレビ放送がある。北部にある台北と南部にある高雄は、台湾の二大都市だが、さまざまな面で違い、台北は日本占領時代から始まる、国民党が支配する北京語の世界、高雄は近くの台南に明朝の鄭成功がいた歴史を持つ古いところで、高雄そのものは日本時代に拡張されたが、台湾語が幅を利かし、信仰深い、古きよき台湾を代表する。

台湾で、私は海岸で泳いだ覚えはない。アメリカン・クラブのプールで泳いでいたと思うが、とにかく蒸し暑い。少しドライブして東へ基隆(キールン)か、南東の花蓮あたりの東海岸へ行けばいい海水浴場はあるのだろう。九月に、旧暦八月十五日の中秋節がある。この日の夕方は、台北の人たちは近くの公園や、山の中へ行き、月明かりを楽しむ習慣があった。九月二十九日は孔子の誕生日で、教師節として盛大にお祝いして、特に学校ではさまざまな催し物がある。十月十日はいわずもがなの双十節で、中華民国の成立記念日。政治的な宣伝もあり、台北の総統府で各国の代表を招いて盛大な催しがある。十月に旧暦九月九日の重陽節があるが、これは何をやったか、よく覚えていない。

台湾-太魯閣渓谷

太魯閣渓谷入口

台湾は秋から冬にかけて、天気はどんよりと曇り、雨もあり、多少寒くて、私は好きでなかった。秋十一月に家族で上述の台湾全島旅行をしたが、花蓮の少し下から山の中に入り、タロコ渓谷(太魯閣国家公園)の天祥というところで泊まり、梅畑で梅が満開なのを始めて見た。梅は中華民国の国花で、台北の蒋介石記念館だったか孫中山記念館だったかの右側にも梅の花が彫り込んであるが、梅林は台北では見たことがなかった。十二月になると、忘年会が始まり、円卓を囲んでの宴会では、宴会中にある人めがけて杯を挙げて、乾杯し、お互いの健闘を祈りあうという習慣を初めて学んだ。中国文化圏なので中国大陸生活を経験した今考えると、会社の各部署の出し物がある大掛かりな忘年・新年会もあったはずだが、私の会社は米国系の会社だったので、立食形式のファミリー向けパーティーだったので、私の日本の会社と似ているなと思っただけだった。十二月から一月にかけて春節への買い物が始まり、その中でネコヤナギの芽を飾る習慣があるのを知り、日本で信州の田舎では雪が解けて、春にネコヤナギの芽を川原からつんだりしたので、大変なつかしかった。

 

中国・大連生活の四季

 

中国の遼寧省大連の生活も長くなり(2000年代)、生活の四季もだいぶ分かってきた。大連の新年は一月末、二月初めにある春節(旧正月)から始まるが、毎年日付が変る。春節は家族が集まる時なので、中国に家族がない私は海南島へ行く旅游団(ツアー)に乗るか、日本へ税金の申告で帰るかして、たいてい大連を逃げ出しているので、中国の正月の経験は少ない。(逃げ出す理由に以前は商店がすべて閉まったのだったが、いまは元日から開いている。)前夜の大晦日のテレビ番組「春節晩会」で歌や踊りや劇(特に東北地方の農民をコミカルに演じる趙本山が人気)をたっぷり見て、夜中の12時を期して爆竹と花火を挙げて、正月を迎える。日本のお雑煮のような正月独特の食べ物はなくて、元日から初三(正月三日)までは夕方7時半くらいから星海広場で花火大会がある。大変混んで寒いので、一つの方法は黒石礁の大連自然博物館の脇の海岸から見ると、海越しに見えてきれいだ。

星海広場は正月の15日くらい前から電飾できれいにほどこされて、街中も人民路・中山路などの目抜き通りも電飾が灯る。初十五は元宵節だが、大連では特に何もなく、花火が少し上がる程度で、以前電飾はこの日までだったが、いまは初三十一くらいまでやっている。電飾とは裏腹に、この頃が一番寒く、早朝の最低気温は零下十度程度になる。土日の朝は児童公園でアイススケートができるので、時々行く。(スケート靴は200元くらいで買えるので、大連滞在1年目に買った。}ここは戦前も「鏡池」のスケートとして有名だったところらしく、氷の表面はガリガリだが、戸外のスケートで気持ちがいい。鈴木スケート場という屋内スケート場が労働公園の東南寓にあり、一度見に行ったが、感じがよくないので、私はそこですべったことはない。

最近大連にスキー場がいくつかできて、旅順北路の由家村から旅順中路の方へ向かったところにある林海滑雪場が一番近く、一回同僚たちといって、貸しスキーで滑ったことがある。北側に面したスロープなので、初級コース、中級コースはままあだが、上級コースはガリガリのアイスバーンになり、私のレベルのスキーヤーには危険だった。このほか、瀋陽~大連高速道路の金州出口のすぐ北の砲台山出口近くの銘湖温泉・スキー場、さらに遠くの安波温泉・スキー所もあるが、まだ行っていない。いずれも人工雪で、大連は雪は降るが、空気が乾燥しているので、降雪量は少なく、翌日雪はすぐ解けてしまう。安波温泉は夏に一度行ったことがあるが、湯船に垢がたまっていたりして、感じが悪いところだった。

三月はじめ、水が多少ぬるむころ、大連唯一の奇観を見ることができる。それは大連が不凍港で、大連の海は凍らないと信じている人が多いが、それは半島の東海岸のことで、半島の西海岸、渤海は喫水が浅く、時にその金州湾は12月から2月にかけて凍り、大連ラマダホテル(九州飯店)の裏から出る夏家河子行きバスに乗り、終点で降りると、眼前に凍った海が見える。(このころ、この南側にある鞍子山に登ると、眼前の海の右側がビッシリと白く凍り、左側が青い海が広がっているのをよく観察できる。)それから、三月はじめになると、この金州湾の氷が溶け出して、日本の北海道の網走の流氷のように、ポカリ、ポカリと海に浮かぶ奇観を見ることができる。

四月はじめ、我々は「大連山の会」の活動を開始する。例年春の第一回目は私が幹事で、市中心の青泥窪橋から五路バスに乗り、銀沙灘で降り、浜海路沿いに海岸を歩いて、金砂灘で浜辺に下りて、そこから背後にゴンドラがかかっている西大山へ登る。冬の間は寒くて海を見るのがいやだが、こうして春近くなり、海岸にて石で水切り遊びなどをしてたわむれて、花が芽ぐむ桜の木を見ながら山路を歩くのは、大好きだ。これから十月末まで、二週間に一度は土曜日に山の会の活動がある。イースターが三月末から4月にあり、大連で私がいっている外国人のクリスチャンの集まりはスイスホテルでやっていて、イースターの午後はお茶とお菓子のパーティーをやったり、年によっては向かいの労働公園でエッグハント(卵探し)をやる。

四月に大連の街の公園のレンギョウの黄色の花が咲くと、もう春だ。桜は「旅順の桜」が有名で、これは旅順南路の龍王塘村に日本租借地時代に建てたダムの下の広場に植えられているもので、このあたりでは有名で、大連の開発区あたりからもバスを仕立てて見物に来る。中国の桜は押しなべて、台湾でよく見る、小さな木の枝が上向きで赤やピンクの花で長持ちするものだが、ここだけは大きな木に下向きに白い花が咲き、散り際も大変いい、日本人向きの桜だ。四月末には大連マラソン大会があり、五キロの競争もあるので、私は2007年から参加している。2008年からは最後に大連体育場(陸上グランド)に入れず、外で終るようになって、残念。

五月一日は労働節で、2008年からは三日だけの休みになったが、まだ以前と同じように一週間休みの人が多い。この頃になると丁香(ディンシャン)、つまりライラックがいい香りで咲き、我々は開発区の大黒山へ登り、野生のライラックを見たり、カッコウが鳴くのを聞く。大黒山は東京地区の丹沢山塊の小型版とでもいえるようなところで、東の正式入り口、北の大連大学脇の勝水寺からの入り口、そこからの縦走、南嶺登山と、いろいろ楽しめるところだ。五月末には街中に植えてあるニセアカシアが甘い香りを運ぶ白い花を付け、いよいよ「アカシア祭り」がある。このころ中国の南の浙江省あたりのハチミツ集めの職人が、山東省を超えて大連へ来て、我々が西山水庫近くの山や開発区の砲台山公園へアカシアの花を見に行くと出会い、彼らからロイヤルゼリー入りのハチミツを安く買えるが、中国では正規ルート以外で買う時はいつもリスクと危険性を伴なう。ニセアカシアは老木になると幹が曲がって、醜くなるので、大連人は最近街路樹にはプラタナスが好きで植えていて、夏はゴーリキー通りで見るように大きく葉を茂らせて木陰を作り、秋には最後に葉を落とし、冬には太陽をサンサンと通してくれる様子がいい。

大連には街中にも郊外にもいくつか温泉ができて、私が一番好きなのは旅順の遼東半島の先に近い、老鉄山温泉だ。市内からも専用バスが出ていて送り迎え付きで一日200元で、そのエリアは外国人ご法度のところだが、自分の車で行ってもとがめられたことはない。日本式の温泉で、露天風呂も、打たせ湯もあって、温泉に入った後は休憩室の長いすで休める、五月の連休から十月の連休の期間は、男女別の露天風呂の真ん中にもう一つの露天風呂があり、水着を貸してくれて一緒に入ることができるので、男女のグループで行く時は面白い。自家用車で行けば、近くに百年灯台があり、そこの公園は遼東半島の突先にある岩場の海岸で、興味深い。開発区の温泉もまあまあで、また金州の先の銘湖温泉は盛んに宣伝をしているが、まだいったことはない。

大連は北緯39度、日本の仙台くらいの緯度にあるので、夏に台風は来ない。夏は比較的に乾燥していて、過ごしやすいが、結構暑くはなる。街中に水泳プールもいくつかあり、特に冬はそこがいいが、夏は何といっても海岸で泳ぐのがいい。付家荘公園など無料のところ、棒棰島海岸など有料のところなどがあるが、大連の会社はすべて夏季に「上海活動」で従業員を海に連れてゆく習慣があり、それをやらないのはそろそろつぶれる会社だといわれているので、私も毎年旅順の塔河湾海岸などに連れていってもらっている。多少遠出になるが、先ほど海が凍結するところと述べた夏家河子の海岸、開発区のさらに東の金石灘の海岸があるが、これらは遠浅海岸で子供向きだ。夏家河子は渤海に面しているが、渤海はすべて遠浅海岸で、一度会社の遠出旅行で、営口市との境の華銅近くの渤海海岸で遊んだが、そこは100mくらい沖に出ても背が立つ遠浅海岸で、海水が砂を巻き上げるので、水はあまりきれいではなかった。

夏に二種類の街路樹が花を付ける。一つは中国産アカシア(国槐、グォホヮイ)で、これは日航ホテルの近く、東北財経大学の構内などの限られた場所にあり、7月に小さな白い花を付けるだけだが、ニセアカシア(洋槐、ヤンフヮイ)と違って、幹がスクッと立ち、きれいな木で、先日北京で街路樹を見ていたら、70パーセントくらいはこの中国産アカシアだった。8月にはねむの木(合歓樹)が、ピンクの花を付けて、これは北京街に街路樹として植わっている。このあたりの人々はまちがって「芙蓉樹」と呼んでいるもので、台湾では少し早く7月の卒業式のころに咲くので、思い出深い花として親しまれていた。

九月は、中国では学校のスタートだ。大学一年生はすべて一か月の軍事教練があるので、大学近くでは迷彩服を着た若者の行進をよく見かける。翌年7月に卒業する生徒の企業募集会がこの月からあり、九月はまず軍隊が一番優秀な卒業生を採用し、十月から十二月は一般企業が募集する。大学四年生は一月からは授業はなくて、企業によってはその頃からもう入社教育に近いことをやる。九月中ごろ教師節があり、一応お祝いがあるが、台湾では孔子の誕生日と一緒に盛大に祝っていたのに、中国ではそうでもない気がする。

十月一日はいよいよ国慶節で、通常大変いい気候で、旅行シーズンだ。私もこの時期に、北京へは会社で、湖南省の張家境と四川省の九寨溝へは旅游団に参加して、行っている。十月初めに旧暦九月九日の重陽節もあり、この日に高いところへ登り故人をしのぶ習慣があり、私は近くの山へ登っている。紅葉は北京の香山がいいとかいうが、一応紅葉はあったが、あまりよくなかった。大連近くには紅葉でいいところはなく、どうやら十月初めに遼寧省の本渓(炭田と鍾乳洞で有名)近くの関門山(クヮンメンシャン)がいいらしく、来年あたり旅行団に参加して、見てみたい。十月ごろもう一つやりたいと思っていてやれなかったのが、旅順は東北地区からの鷹類が上昇気流に乗って南へ、黄海を超えて山東半島の方へ渡るのを見る絶好の場所だと聞いているが、いつか見てみたい。

十一月には人民広場の西側と南側のイチョウが色づききれいで、家の近くの中山公園でメタセコイア(水杉)の葉が褐色に変り、最後に街中のプラタナスの葉が色づくか、落ちると、初雪の時期を迎える。大連の雪は2~3センチで、翌日はもう解けてしまう。秋も深まると、街頭では糖葫芦(タンフールー)を売っている。数個のサンザシを串に刺して、砂糖を煮融かしたものをかけて、甘酸っぱい味にしたもので、おいしい。百年も前、いや千年も前からあるに違いない、中国独特の秋の風物詩だ。また、東北地方の名物、白菜で作る酸菜(スヮンツァイ)という漬物があるが、昔子供の頃信州で野沢菜を作ったのを思い出しながら、最近これを作ってみたが、中々いい。

十一月になると、外国人のクリスチャンの集会で第四木曜日に米国スタイルの感謝祭パーティーをやり、私は友人たちを招待している。12月に入るとクリスマスの宣伝があり、街はクリスマス風の飾り付けであふれる。「ジングルベル」とかのクリスマス音楽はあまり聞かない。教会では12月はじめに洗礼式をやるところが多く、春のイースター(復活節)とこのころに洗礼をやるのは、世界中いずこも同じだ。教会でのクリスマスは少し違い、イブやクリスマス当日の礼拝はなく、玉光街礼拝堂ではイブの16:00から50人の大合唱隊の出し物があり、クリスマス当日は朝8時から午後2時くらいまで、各グループが祭壇でお祝いの歌と踊りを披露する。一月一日は一日だけが休みで、会社によっては十二月三十一日は午後休みになるところもある。私の会社では地下の大会議室で、その年に流行った映画を放映するのが慣わしだったけど、去年からなくなった。私は自宅で夜NHKワールドプレミアという放送で、日本の紅白歌合戦を見ることになる。

中国の会社では春節の前、一月にボーナスが出て(通常一、二か月)、我が社ではなぜかいつも銀行の新しいカードを作ってくれて、それにいれて出す。春節の前にまた新年会(聨歓会)もホテルなどを借り切って行なわれるが、多くの会社ではおそらく会場費が安いのだろうか、十二月末にはやばやと行なわれる。新年会ではその会社の各部門がステージの上で「小品」と呼ばれる出し物を演じるので、このため十二月初めから昼休みや夕方、出し物の原稿を作り、練習をする。新年会の出し物は歌あり、踊りあり、劇ありで、かなり専門的で、おそらく学校時代にもかなり経験を積んだことがうかがわれる。私はこれまで、外国人だけの中国語「サンチューパン(三句半)」(分かりやすくいうと、日本のなぞなぞ「何々している何々は、何々と解く、その心は、何々」というのを四人でやるようなもの)、流行の女性歌手グループS.H.E.の歌と踊りを真似たもの、など。

大連は仙台くらいの緯度だと上に書いたが、一・二月の寒さはシベリアに近いので、札幌並みの寒さではないだろうか。冬の寒さをものともせずに、ハルビンの氷祭り(氷灯節)を見にいったこともある。札幌の精巧な雪像よりも、荒削りの氷の像だが、中に赤青黄色の電灯を埋め込むので、夜は特にきれいだった。春節前の旧暦十二月何日だろうか、花火が突然あり、小年(シャオニェン)と呼ばれる日で、それから正月の時節が始まる。市内の目抜き通りに電灯の飾りが付き、星海広場にはきれいな電飾が施される。もう中国の正月は近いと感じる。私の子供の頃はカレンダーに小正月が書いてあったが、いまは完全になくなってしまい、日本にいると分からないので、Eメールで旧正月が何日か聞かないと分からないようになってしまったのは、多少悲しい。

 

 

日本・信州の村生活の四季

 

長野県-雪

信州に降りしきる雪

私が日本の信州(長野県)の村に住んでいた頃(1950年代)の1年は、お正月元日のお宮参りから始まった。お宮(神社)は私の家から県道を5分くらい歩いてから、幅3メートルくらいの田んぼ道を30分くらい歩くところにあり、前夜降った雪がまだ残っているところを掻き分けて歩いていった。それが終ってから、家でお雑煮を食べ、年末に胡桃を川端で拾ったのを砂糖とまぶしたねっとりとしたものをかけて食べる習慣だった。1月2日が書き初めの日で、1年の計を筆で書いた。冬休みも長く、信濃教育会編集の「冬休み宿題帖」で、小林一茶の俳句カルタを作り、子供同士で遊んだこともあり、おかげで彼の俳句をよく覚えた。冬休みの間、母方のおじさん・おばさんがいとこたちをお互いに代わりばんこに呼んでくれて、うちの母はお正月料理に加えて、夏みかんの実を袋から取り出し、砂糖をまぶしてみんなに出してくれ、これを食べるのが私は楽しみだった。

1月15日にはドンド焼きがあり、部落毎に雪の降った田んぼに、竹のヤグラの骨に乾いたワラを積み上げて、夜7時ころ火を着けて、それが雪に映えて、すばらしい光景だった。書き初めの紙を竹棒の上につけてそこで燃やし、またそこでモチを焼いて食べると、1年中風邪を引かないという言い伝えだった。また、1月末から2月にかけて、モチがなくなるころ、旧正月のせいもあったのだろう、年末のモチツキに加えて、もう一度モチツキをした。私の家は毎週一度おじさんの家へ行き、貰い湯をしており、その帰りの雪の夜道をゲタ履きで帰って行くと、冬の星空がすごく綺麗で、流れ星も見えたことを、いまでも印象深く覚えている。

冬のそり遊びほどスピードも、スリルもある遊びはやったことがない。北信(信州北部、すなわち長野県北部)では雪が深く、池や湖でのスケートはできず、スキーも用具がなくてできなかった。我々子供たちは各自がそりは持っていて、近くの坂になった畑の雪を踏み固めて滑ったり、3~4人が集まると、黒川を越えて、八蛇川(やじゃがわ)を越えて行き、八蛇川の坂と呼ばれる、東黒川へ向かう150mくらいの大きな坂を上って、途中の100mくらいから、3~4台のそりを連ねて、滑り降りた。1台目には小さい子を乗せて、2台目は舵を取るのでいちばん重要で、私もこの2台目をよくやったが、時には6連結とか、9連結くらいまでやったことがある。坂を滑り降りる最後の制動は足を地面に付けて踏ん張るだけで、まかり間違えば田んぼにつっこむか、八蛇川の橋か、川に突っ込むしかないスリルがあった。制動が効かない時のいよいよ最後の手段は、自分でそりごと横にひっくり返り、ブレーキをかけるしかなかった。

冬は農閑期なので、大人は温泉に行く人もあったが、たいていの人は家にいて、お互いにお呼ばれして、コタツに座って、秋に漬けて、アメ色になった野沢菜を食べながら、お茶を飲んでいた。味噌作りも自分たちでやった。ある日、お隣の政吉さんの家に近所の人が大勢集まり、入り口を入ると大きな土間があり、農作業をする所になっているので(その右が牛小屋で奥が台所)、そこである人は大豆を煮て、ある人は大きな樽に煮た大豆と塩と麹で味噌を作っていた。こうして、その家の味噌を数年分作り、翌年は別の家で作るというような、共同作業をしていた。ただし、醤油を作るのは難しいらしく、自前では作ってなくて、戦後で入手が困難で、みんな困っていた。

北信では、が本当に待ちどおしかった。子供たちは春が近くなり、水がぬるむと、下の八蛇川のほとりへいって、ネコヤナギが白い穂をつけているのを採りに行ったりした。(その後、台湾へいったときに、新春にネコヤナギを飾る習慣があるのを発見して、嬉しかった。)そして春は何といっても、学校から八蛇川の向こうにある城山(じょうやま)の花見だった。この村には上杉謙信の出城があったのは前に述べたが、そこが城山と呼ばれていて、4月末に沢山の桜が満開になる。村人が総出で繰り出し、基本的には家族単位で桜の花の下で夕食を食べ、大人はお酒を飲んで、大騒ぎをした。私たちが後に東京に引き上げたあと、花見に便利だからと電灯を引いたところ、桜の木に虫が集まり、しばらくして桜は全滅し、もうこの花見は行われていないという。

初夏、6月には田植え休みが1週間ほどあった。(秋にも稲刈り休みが1週間あった。)当時村では、多くの家でカイコを飼っていて、畑には桑を植えていた。各農家は2階や屋根裏部屋にカイコを飼って、昼も夜も、カイコがサクサクと桑の葉を食べる音がした。カイコは繭(まゆ)をお湯で煮て、中のカイコを殺して、白い繭だけが出荷されたが、時々中のギョトと呼ばれたさなぎ状態を食べたり、繭から生糸をつむぐ人もいた。この戦前から日本のお家芸だった生糸産業は、しばらくいてナイロンなど化学繊維の発達と共に、数年後に消えてなくなった。

私の家は裏庭と、そこから坂を歩いて5分くらい下ったところに「下の畑」があり、ナスやキュウリやトマトなどの野菜を主に、また枝豆なども作っていた。下の畑には1本の大きなアンズの木があり、初夏7月に、私は兄とこの木に登って、ダイダイ色のアンズの実を採って食べるのが楽しみだった。それにしても両親にアンズをおみやげに持って帰った記憶はなく、当時私たちみんな貧乏で、「分け与えなさい。」とか、「貧しい人に親切にしなさい。」と教えられたことはなく、いまはこれを大変反省していて、いつか姉さんに中国の果物を持って帰りたいと思っているが、果たせていない。

夏休みは7月20日ころから、8月の20日ころまでで、我々男の子たちは昆虫採集やら、川で魚捕りやら、忙しかったのを覚えている。近くの黒川には大きな岩と泳ぎに適したところがあり、水泳に行って、珍しく子供同士男女一緒にいったが、多分これは水泳が危険を伴なうので誘い合わせて行くように大人が指導したのだと思う。私らは学校から10分くらいのところに住んでいたので、夕方学校の校庭でセミのさなぎが穴に口をあけて、木に登り孵化する直前を見つけて、穴を見つけてさなぎを捕まえて、自分の昆虫箱で夜孵化させて、きれいな成虫になるのを観察するのに夢中になった。

七夕は8月7日で、それには紙の短冊にいろいろな願いごとを書いて、竹に飾り、それを川に流した。畑でサトイモの葉に早朝たまった水滴を集めて墨を刷って書くと、字がうまくなると言われていたので、やったが、私は習字と図画の類は一生不得意だった。お盆は旧盆で、8月13日から16日にあり、重要な年中行事だった。お盆の前日くらいに「お馬さん」を作り、これはキュウリやナスに割り箸で四本の脚をつけるもので、北信独特の習慣だった。お盆の期間毎晩先祖のお墓に行き、白樺の皮で火を焚き、子供たちを中心に13日は「じいさん、ばあさん、この明かりでおい~で、おいで。」と2回ぐらい歌い、16日には「じいさん、ばあさん、この明かりでお帰り、お帰り。」と歌った。お盆の間だけ、先祖の霊が帰って来るという、言い伝えだった。母はお盆には必ず、薄皮饅頭を作ってこれを我が家では「オヤキ」と呼んでいたが、いま一般に「オヤキ」と呼ぶものとは違っていた。

には、いとこたちとキノコ採りにいった。特にクリタケは一度見つけると、まわりにドッと生えていて、楽しかった。キノコは山から採ってくると、おばあちゃんに必ず見てもらい、食べられないキノコは選別してもらった。キノコ採りの途中にたまたまアケビを見つけるとみんなで大騒ぎして、アケビの皮の中にある甘い部分を食べて、またアケビは女性のある部分に似ているので、子供心に知ったか振りをして「アッケビッコ、キュー」とか叫んで、興奮したりした。それから、秋の行事は何といっても、10月の運動会。村人も見にきて、ゴザを敷いてお弁当を食べて、本当に村中のお祭りだった。また、11月には村民運動会もあり、これには部落対抗の野球があり、稲刈りも終った時期で、村中が楽しんだ。

秋も深まると、学校と家庭でひとつずつ、重要な行事があった。学校では、全学で村有林へ出かけ、冬の間に使う薪(たきぎ)を拾った。松の落ち葉など燃えやすく、火持ちのするものを拾って、うまく縄で結わえて学校まで運ぶのだが、縄で結わえるのがうまくないと、途中みな落ちてなくなってしまうので、注意が必要だった。家庭では、野沢菜を川で洗って、数日干して、大きな木の樽の盛り上げるように入れて、上にふたと重石を置いて、一と月ほどすると、ふたが沈み、野沢菜ができるので、これを一冬の野菜にした。大根も似たようにして、タクアンを作った。また、渋柿(ハチヤ柿)を沢山入手して、皮をむき、軒下につるして、干し柿を作り、これが冬に氷のツララがぶら下がる軒下に干し柿があるのが初冬の信州の風習だった。

12月24日のクリスマスイブのサンタクロースの贈り物は、靴下に入れてくれる習慣はすでに始まっていて、楽しみだった。そして年末にはモチツキがあり、正月用のモチを沢山作った。当時信州の台所ではカマドに蒔で火を炊いて、ご飯はお釜で炊いていたが、私の母は12月の20何日には必ず、カマドを綺麗にして、カマドの神様に一年中火事がないように祈ることをしていて、私は最近中国へ来てから、同様な習慣が中国に「祭竃」(チー4ツァオ4、旧暦1223日)としてあるので、この習慣が日本へ伝わっていた行事だと、初めて知った。

 

日本・信州の都会生活の四季(未完)

 

上記の村生活は1950年代の話しだが、その45年後位の長野冬季オリンピック1998年)の前年から、長野市に単身赴任したので、上に書いた子供時代とは多少違った生活の四季だった。まず、東京から長野新幹線ができて以前の信越線に較べてアクセスが格段によくなった。住んだのは長野駅東口(善光寺のある西口の反対側)から20分くらい歩いて、長野通りを超えたところで、まあ都会ともいえるが周りは半分住宅、半分畑だった。(続く)

 

日本・藤沢生活の四季

 

いつの間にか、神奈川県藤沢市に住む期間が一番長くなり、ウィークデイの昼間は仕事で外にいたが、それなりに周りが分かってきた。新年の元旦には、朝おとそを飲んで、お雑煮を食べ、新しいお箸を使うのは明子の家の習慣で、お雑煮にかける胡桃のソースは信州の習慣で、これは私が作る。それから、以前は近くの諏訪神社へ行ったりしていたが、クリスチャンになるに従い、横浜の教会の新年の礼拝に行っている。年賀状が届くが、私は年賀状を長らくサボっている。十四日の夕方のドンド焼きはこのあたりでは「左義長」と呼ばれていて、近くの大磯町の海岸でやる左義長が一番見栄えがするのをやっていて、町の人は木の枝に色とりどりの繭玉(モチを丸めたもの)を刺して、これを火であぶって食べると、冬風邪を引かない。信州生まれの島崎藤村は晩年この町に住み、そこにお墓もあるが、どうしてここを選んだかというと、信州のドンド焼き以上にすばらしいここの左義長が気に入ったのではないだろうか。

日本の太平洋岸は冬快晴の天気が続き、寒いが、乾燥していて、私は大好きだ。以前はスキーをしに、ウイークエンドに朝四時ごろ起きて、車で厚木を経て、中央高速を突っ走って、八ヶ岳などのスキー場へ日帰りでいったこともあるが、いまは山登りの会で、冬にも簡単な山へゆっくりと登っている。冬は通常良く晴れているので、家のそばの崖の上から鵠沼海岸が見下ろせて、遠くは大磯町、箱根、富士山、伊豆半島が見え、夕方の夕日は特にきれいだ。

小田原-曽我梅林

小田原の曽我梅林

二月、小田原市の梅の花が咲く。梅の花は小田原城などにもあるのだが、本命は二宮からJR御殿場線の途中にある梅畑で、農家が作ったモチなども売っているので、田舎くさくて、いい散歩にもなる。三月の春分の日は、日本ではお盆、九月の秋分と並ぶ墓参りの日だが、私の両親は東京・多摩墓地にあり、明子の両親は藤沢市にあり、都合により適当な日にいっている。二月に、ブラジルで昨日リオのカーニバルがありましたという報道のある週の水曜日、私は一番好きなキリスト教礼拝に出る。カトリックと伝統的なプロテスタント宗派のみがやる礼拝で、それはイースターの五十日前の灰の水曜日(Ash Wednesday)に、司祭が各信徒の額に灰で十字を切り、「あなたは土から埋めれたので、いつか土に帰る。イエスを模範として、正しく生きなさい。」というような旧約聖書の言葉をいうもので、毎年勤めてこの礼拝に参加するようにしている。

三月末は沈丁花がすっぱい香りを運んで咲き、これは卒業式のころの微妙な時期に咲く花と私は心得ている。四月初めはこの地区の桜が満開になり、桜の名勝はいろいろあり、近くは目白山公園という、大船~江の島モノレールの目白山駅の近くにあり、子供が小さなときにはここで花見会をやったりした。ついでにいうと、私の家から五分くらいで、片瀬山の森林に入り、そこの自然を満喫して、下の小学校へ出て、そこから藤沢の街へ、全部で三十分くらいで歩いてゆける。

四月二十九日はいま昭和の日で、これから五月連休が始まる。藤沢市のある神奈川県には北部に丹沢山塊があり、いくつかの峰へ日帰りで登れる。IBM藤沢/大和開発研究所に働いているころは、例年丹沢集中登山をやって、みんなでハイキングをした。六月になるとホタルが見えるが、観察場所は近くの鎌倉市の山の中、箱根町の早川にある。この時期ショウブの花が見えるが、近くにあまりいいところはなく、横須賀市のしょうぶ園か、私が子供のころから見慣れている東京の神宮御苑がいい。アヤメは七月中旬に少し遠くになるが、山梨県の櫛形山へ見に行ったことがある。

七月末から八月いっぱい小中学校は休みになる。海は近くの江の島でも泳げるが、これは東京人用で、土地っ子はもう少し西の大磯や伊豆半島へ行く。そして、夏の楽しみは何といっても花火。鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、平塚、大磯など、湘南海岸の各市が海岸で大花火大会を開く。花火大会は夕方七時半くらいから九時まで続く。新潟県や秋田県で大きな花火大会があり、そこへ見に行く人も多い。八月になると広島と長崎の原爆記念日があり、そのころ公園にはカンナ(紅艶蕉)の赤い花が咲く。台風もこのころ、八月から九月にかけて多く、要注意だ。

九月の祝祭日には敬老の日と秋分があり、十月は体育の日がある。体育の日は1964年の東京オリンピックの記念日で、このころ学校で運動会がよく開かれる。十月末には山で紅葉が始まり、このあたりでは箱根や伊豆が有名どころ。十一月の祝日には文化の日と勤労感謝の日がある。晩秋に友人と大磯駅の背後の山に登って、頭上を高く飛ぶ鷹類を観察したことがある。鷹類はそこから東南へ飛び、伊勢湾の伊良子崎が特にいい観察点らしく、さらに九州、沖縄、台湾へと渡っていくらしい。また、茅ヶ崎の海岸の岩には珍しいアオバトが丹沢方面から塩を食べにきていて、この鳥も東南アジア方面から渡ってくるそうで、このあたりは知っている人と注意してみれば、自然にあふれたところだ。神戸に住んでいる時に、関西では滋賀県の「伊吹山に初霜が下り/初雪が降りました。」というのが冬の訪れであることを発見したが、関東地方では栃木県の「日光の戦場ヶ原で初霜が下り/初雪が降りました。」というのが冬の前触れ。

十二月になるとクリスマス商戦が始まり、町はクリスマスの飾り付けと、「ジングル・ベルズ」などの歌で埋まる。私はクリスマスイブまたはクリスマスの日に礼拝に出る。十二月三十日ころ、簡単な門松の飾りを門の両側に付けて、正月を迎える。大晦日は夜八時から、言わずもがなのNHK紅白歌合戦を見て、昔の流行歌や、普段は聞きなれない現代の流行歌を聞いて、居眠りをしなければ、深夜の二十四時前に除夜の鐘の音を聞いて、寝る。気が向けば、近くの龍口寺があり、ここで除夜の鐘を突く。

 

 

 

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Created by Yoshi Mikami on March 7, 2015. Updated on April 2, 2015.